ポランニーという経済学者の論文を集めて作られた『経済の文明史』という本のあとがきで、
「資本主義は労働や土地や貨幣を飲み込もうとした市場経済の運動で、社会主義運動や労働運動はそういった資本主義に対する社会側の抵抗の現れである。
基本の二軸として資本主義側と社会側があって、資本主義がどんどん飲み込もうとしていく中で社会はそれに抵抗するような運動が生じてきた」
というくだりがある。
「資本主義」とか「社会」という概念は平均化されすぎていて、ピンポイントに当てはまる人がいないような疑似的な平均化になっているように思う。
「なんとなくここに基準を置いておけばピッタリ当てはまりはしないが、大きく不利益を被ったり過ごしにくい人はいないだろう」みたいなライン。
法律とか制度とか常識とか暗黙の了解的に多くの人が受け入れて過ごしているような、「大学まではいきますよね」「その後は就活しますよね」とか、
でもそれは人間という存在そのものを考えれば、つまりマンモスを追いかけ木の実をあさっていた人間から考えればおかしなことをしている。
でも科学や技術が発展し、それらを軸にした<豊かな社会>に向けて進んでいく中で、「ここまでは受け入れられるラインである」という形で労働時間や自然権が主張されるようになってきた。
ただそれは「これまでの人類がそういった市場経済の運動の中で抵抗してきたギリギリのライン」でしかなく、個人レベルではその先のそいつがもっとそうしたいあり方を選んでいい。
そうなったときに重要になってくるのは、この市場経済が飲み込んできた、またこの先も飲み込もうとしている領域から外れていく、市場経済や資本主義にからめとられていないオアシスを自分の環境の中から見つけていく、探しに行く、そういう感覚。
その時に必然的にこれまた重要になってくるのは、じゃあこれまでの市場経済は何を飲み込んできたのか、そして社会はそれにどう対抗してきたのか、そしてそこからすり抜けていこうとした個人としてどういった人がいるのか、これは歴史の勉強。
例えば二年間森で過ごした経験を本にした『ウォールデン 森の生活』で有名な通称「森のソロー」は、湖のそばに家を建て畑で豆を栽培して暮らしていた。
でも彼は森に引きこもって自給自足を頑張ろうとしたわけではなく、日中は散歩して町を歩き回り、夕方仕事を終えて帰ってくる村の住人とすれ違いもした。
「森の中に住んでいる個人」という、社会から一つ外れたところから周囲を観察したのである。
例えば中央銀行なんかでも、当然に存在しているお偉い組織として受け入れているが、
もとは金職人が移動に不適当な金を富豪から預かりそれをまた人に貸し出すときの預かり証として発行したのが紙幣の原型で、
つまり、最初は金との交換チケットだったはずが、実際に交換できる以上のチケットを勝手に渡すようになる中で今の銀行になっていくと考えると、
何か特別な絶対的な存在とも思わなくてもいいとなってくる。
そういった形で、物理空間でも情報空間でもこのすでにある社会にからめとられていない隙間を探す、一つ上の階層に滑り込む。そういう感覚が面白く、いい訓練にもなる。

