放送室というラジオで松本人志が「中途半端な話として聞いてもらえます?」と言って始めた話が、その内容ではなく形式というかその感性というか観点がかなり興味深いので紹介してみる。
話の流れだけまとめると
高2の時に書いた手の自転車が盗まれた、それを家で母親に言うとちょっとした小競り合いになった。保証書が必要になって探したが見つからず、そこにたまたま機嫌の悪い父親もいて、両親で口論になり、父が母の頭を三回蹴った、そしたら母はずっと「いったぁ、、、いったぁ、、、」って言ってた
という内容で、こんな書き方をすれば何も面白くはないが、実際の松本人志のテンポと間と空気感で聞くと、
「何でもない話」と言われてるからこそ逆に面白い、という感じになってくる、
で、それも今回言いたかったことではなく、こういう話って僕が普段適当にメモったり文章書いてたりする中にも出てくることがあって、
つまり、特に明確なオチや結論がなく、それらは最悪別になくてもいいけど、なんというか人に向けて発信する要件を満たしてない、
自分なりの基準に達してないのは毎日書いていればいくつも出てくるもので、だから芸人のトークにおいてもそういうことってあるのだろうな、と、聞いてて思ったのだが、
ここからが本題で、僕の場合はそういう塊も
「いわゆるブログ記事のコンテンツのような目線に立てば確かにその意味での価値は低い、でも日記とかエッセイのようにその人の普段の生活や物の見方が感じられる一つの短い読み物としてみて見ればこれはこれで成立しなくもない」
と考えたりもする。
つまり、芸人的に言えば、通常のちゃんと面白いトークとしては使えないが、「中途半端な話」と先に宣言しておけばそれも込みで面白くなるように、
落としどころやカテゴライズなどの外側の構造を別物にすり替えることで、同じ中身でも人が受け取るものとして成立する、という状態に持って行くことができる。
だから芸人でも普段生活していればテレビのトークには使えないけどなんか言いたい話がいっぱいあるのだろと思ったのだが、ここでまたさらに思ったのは、
そういう何とも言えない話を「中途半端」とか「何とも言えない話」とか言いつつも最後は「面白い」に着地させるのがやっぱり芸人なのだなということで、
何が言いたいのかと言うと、これは僕ならさっきも見たように、「自分なりのある一定の基準を満たした、ブログ記事のようなコンテンツ」があり、
でもそれを満たしていない読み物も何かちょっと学びと言ったら大袈裟だが、「少し考えるきっかけになるとか、物の見方をちょいずらすきっかけにはなるかもしれない」という位置づけで解釈を更新して公開することになる、
同じ「何でもない話」でも僕は普段のコンテンツとは違う角度での「interesting的面白さ」として外に出す一方で、
芸人はそれを毎回ちゃんと「funny的面白さ」として消化するのが、同じことしてるようで明確な違いがある。
ということなのだが、せっかくなので僕の思うまじで何でもない話を載せてみる。
何でもない話①:昔のメモの面白さ
最近昔のメモを見返したんですが、結構面白くて、書いて数日は自分の生活過ぎてちょっと生々しい感じで距離を開けたくなるが、
しばらくして完全に他人化して見てみると、そこには何というかわざとらしさがなくて、必死でそれっぽいことを言おうとしてる感じがなくて、そういうところに面白さがある。
そしてこの面白さというのは、こっちの中で感情の流れというか考えが始まること、それが促される。
直接に役立つとか何かうまくできるようになるとかではなく、今度はこういう風にしてみようこんな感じにやってみようこういうことを取り組んでみよう、
こんな風に人と関わってみよう、こういうことにチャレンジしてみよう、こんな文章を書いてみよう、これについてもっと掘り下げてみようとか、何でもいいんですが、
そういう主体的に何かしたいという、まさに○○したい感じを促してくれる。
こういうことをしないといけないという、よくあるような「○○してる人、後悔します」と恐怖をあおってくるのではなく、不安から行動させられるのではなく、
主体的に前向きに次の一歩を、それは大きかろうが小さかろうが、今日何か一つやってみようと思えるそんな気持ちを促してくれる。
それがこういう日記というか小説というかエッセイというかよく分からない何かとして書かれたものの面白さ、
それはこっちに行動を促そうとしていないからこそ、その隙間にこっちから入っていくような読み方が自然となされる、そういう面白さ。
何でもない話②:足湯
昨日は足湯に行った、
室内にあって、でも正面の透明のスライドドアからは緑が見えて、なかは湿気でかなり暑かったのだが、ドアを開けてみるとさすがに九月後半の涼しい風が流れてきてとても気持ちがいい。
と、そこで思ったのが、でも足湯ってただ湯を張ってそこに足を入れてるだけで、別にやろうと思えば家でもできる、
浴槽にお湯をためて横に座って足でも入れておけば体の状態としては同じ、足を温めるだけで汗が出てきて、血流がよくなりそうだが、
と言っても血流がよくなると何がいいのか知らないが、でもそれは別に本来家でもできるもので、
ここで二つ考えたいのは、外にあるいつもありがたがってるサービスは、その根幹部分さえつかめれば自分でも再現可能であるということ、今回の話で言えば家の風呂でも足湯自体は出来る。
ただ、もう一つの話としては、それでは足湯をやった気にならない可能性が高いということ。
つまり、足湯は足を湯につける行為や時間よりも、開放的な感じや自然の中の一部としてそこにいる空間全体で成立していることなのかもしれない、
そこでこの足湯体験を気持ちよくしているのは何なのか、その場で考えてみたのだが、
まずは最初に挙げた目の前に広がる自然、と言ってもそこまで大自然とかでもなくある程度緑が見えるような状態だった、
あとは、外気が運んでくる涼しさ、そして地味にその空間に貢献してると思ったのは、浴槽が(というのか分からないが)横に長くて、そこに並んで座れるようになっていたのだが、
一定の感覚で水を循環させるためなのか、下からぼこぼこ湧き出てるポイントがあって、その音もこの体験の良さに関係してるのではないかと思った。
つまり、無音なのではなくて、一定のリズムで音が鳴っていて、目をやれば泡がずーっと出てくる状態、
これは意外とずっと見れてしまうもので、海岸で波を眺めていられるのに近い(おそらく1/f ゆらぎ成分強め)、そんなことを思った足湯体験でありました。
何でもない話③:身の回りを哲学するということ
哲学ってこういうことなのかもしれない。
今、昔のバイトでの出来事をきっかけに、「不真面目であること」について考えたのだが、
こんな形で身の回りでの経験を題材に、あるものの本質的な部分について考えることが哲学なのかと思った。
文字通り形而上の抽象的な概念をこねくり回すのではなく、もちろんそれもあるのかもしれないが、でもそれは職業としての哲学者がやればいいことで、
僕たちはそこでの理論を持ち帰り、現実のエピソードの中でそれとの関連を取り上げていく、またはその出来事の中から何か本質を取り出し議論していく、
そのプロセスが僕たちにとっての哲学なのではないか。
そしてだからこそ、そうやって物を考える人から生まれる言葉や文章は面白いのかもしれない。
抽象的なレベルにとどまっているのではなく、身近な話題を通してものの本質に迫ろうという姿勢、そこから何かをくみ取ってやろうという野心、その結果として表現されたものだから面白いのかもしれない。
それが感動とはまた別で、人の心を動かすということなのかもしれない。
そしてそれなら無限にできる。
身の回りで起きた出来事体験したことの中から人間について世界について考えていく、その現象に対するフォーカスの深さ、
表面で砂遊びするのではなく、マントルに到達しそうなぐらい深く掘っていく中で見えてくるもの、
むしろそれと出会おうとするその力強さが、その人間と言葉に面白さを与えるのでしょう。

