こんにちは、高本です。
今回は、研究の進め方について発見があったのでまとめておこうと思います。
今までは、研究というのはテーマを決めてそのテーマを一定期間掘り下げて、それをまとめて発表するという形でイメージしていた。
ただ、人間というのはフローの生き物で、一週間後、どころか明日、もっと言えば数時間後ですら、考えてることや興味の対象、やりたいこと言いたいことは変わってくる。
常に何かが僕たちの後ろに流れていて、それを素直に取り出すなら、ずっと同じ対象に意識が向いているわけではないということは分かる。
で、それをどうコントロールしていくか、という問題がまずあるわけです。
つまり、じゃあ「その瞬間の意識の方向に基づいてその通りに動くのがいいのか」ということです。
もう一つは、それに対して「こっち側で制限をかけて向かってほしい方向にうまく誘導する」ということ、
もう少し強く制限するのであれば、「どこにどの範囲で元の想定から外れるところまでを許容するか」ということにもなってきます。
「今書きたいことを書く」or「テーマや構成を決めて書く」
例えば、文章を書くということに限ってまず考えてみると、よく「書きたいことが分からない」「何を書けばいいか分からない」という問題があったりします。
あるテーマで書こうとしたものの手が止まってしまい思うようにいかないというものです。
あとは、書き始めてみたものの話がそれていってしまう、など。
いくつかの問題があるわけですが、これらは自由と制限の問題に還元できるでしょう。
それはつまり、「今書きたいことをそのまま書く」というのと、「テーマや流れを決めてその通りに書く」という2つの極があって、その間のどこをとっていくのかという問題。
目標を定めるのと、その中でどれぐらい自由を認めるのか、という問題も同じです。
で、「個人的な関心ごとの探求、あるいは掘り下げ、という意味での自由研究」に関しても同じなのでは、ということです。
つまり、テーマを決めてそれに沿ってガチガチに書いていくのと、でも明日気になることはまた違ってる可能性が高い、というかそれはもう間違いなく違うわけです。
となったときに、例えば2週間とか決めてその間はずっと同じ話題を扱う、というのは適切ではないんじゃないかという話なのです。
それよりも、今日、今、最も気になっていること、今すぐ調べたいことを、その熱量を存分に活かして今日のうちに満足できるところまで調べる。
そしてそのメモ、またはそこから生まれる着想や原稿を書いておく。
そしてまた明日気になったことを調べていく。
それは昨日と同じことでもいいし、違っていてもいい。
ただ、同じようにその時間から生まれてきたものを文章という形で残しておく。
そうすると、それは毎日同じことを調べることにはならないかもしれないが、でもある一定期間で見れば、ある程度共通の話題が出てくる可能性が高いはずですね。
そうすると、そこで初めて近い内容をまとめていき、それが結果として「研究のまとめ」という形で立ち上がってくる。そういう流れのほうが自然だということです。
つまり、研究テーマや、もう少し日常的な話で言えば、これについて気になる調べよう、そしてまとめてブログなり本なり書いてみようと思ったとき、「じゃあ今日から毎日それを調べていきます」というのは、制限が強すぎるんだと思います。
規則的過ぎるわけですね。
かといって、「なんでもいいよ」となってしまうといつまでたってもばらけてしまうかもしれないし、そもそも途中でやめてしまうかもしれない。
でも、そこがポイントなんですね。
じゃあ、「どこまでの不自由性を認めるのか」ということなのです。
「研究テーマに関する自由・不自由」の外側まで広げてみる
僕は 1/f ゆらぎという概念を知ってから、というか僕の中で元々大事なように感じていた感覚でもあるのですが、やっぱり規則と不規則、自由と制限のバランスが大事なんだと思います。
となったときに、その両方のどのあたりを選んでいくか、というのが重要な選択であり、まず最初にあらわれてくる意思決定のパートです。
それは例えば、テーマはその時知りたいことでいいが、でも毎日研究の時間は絶対に作る、というのもあると思います。
これはテーマはバラバラで一見自由過ぎるように見えますが、でも毎日研究する、というもう一つ外側の行為を確定させているわけです。
つまり気が向いた時だけやろう、という段階よりは強い強制力を持たせたということですね。
逆に、そのテーマにおいて重要なこの本一冊を、「絶対に毎日読み続ける」ぐらいにまで制限を強めることもできるでしょう。
もう少し緩めるならば、テーマは固定であるが、調べていく媒体は本でもネットでも論文でも自由、というのもあるかもしれません。
この場合は、とにかく今週はこの論文をメインで読み進めていく、みたいなイメージです。
そしてこの外側の規則すら外すなら、研究するかどうかも自由、ということになりますが、この場合は、一日の行動に対しての制限をかなり緩めた、ということですよね。
その場合は人生レベルで、ゴールだとか目標だとか方向性だとか、それを自覚しておくという形で制限をかけて規則的な部分を担わせて、
「一日単位では今やりたいこと好きなことをやればいい」という不規則性を体現できて、「人生全体として不規則と規則のバランスをとれている」という人生観もあるわけですね。
つまり、制限のかけ方、規範の強さというのは、結局は個人がどう生きたいかということになってくるわけです。
だからその抽象度から考えたうえで、
「今は毎日研究する、というところまでは確定させておこう、でもその代わり何をやりたいかはその時の気分に任せる、その上で、溜まってきたら共通してる部分を統合して何か形にする」
というやり方もあるってことです。
逸れられない窮屈さ

で、だいぶ壮大になってしまってるんですが、ここまでの話をしたかったわけではなく、今回言いたかったのは、
僕は何かを深く掘り下げていくのは面白いので、というか人生をちゃんと遊んでいく、それはどうやって実現されるのか、ということに関連する領域は掘り下げていきたいわけですが、
とはいえ1つトピックを決めてそれを例えば2週間から1か月はこれをやる、という形しかないと思ってたんですね。
というか大学院でやってたのはそういう感じだったので。
と言っても多少の幅はあるんですが、途中で仏教とか老荘と素粒子物理の関係性が気になってしまうと、
そっちに流れるのは物理を専門にする人としては完全な逸脱になってしまうわけですね。
で、僕はそこに窮屈さを感じていたのです。
でも今、ある研究テーマを決めてそれをその期間やり続ける、というのは、一見正しいように見えて、
つまりエントロピー的にも時間はぎゅっと集中させた方がいいわけですから、いいように見えて、でも感情的にはその通りにはいかないこともあるわけです。
ちょっとそれをやる中でほかに興味出てきたことがあったときに、そっちに流れるのを抑制する感じ。
でもそうすると、今の僕の内部での流れはそっち向きなのに、それを強引に昨日までやってたことに焦点を合わせさせようとするわけです。
じゃあ楽しくなくなっていきます。
で、なんか気持ちが乗らないな、って思ってたんですが、結局はこの自由と制限のバランスをどこに設定するか、という問題だったわけです。
まとめ
なので、これをやりたいなやっていきたいな、と思っても「それを絶対に欠かさず毎日やろうとするのが正しいとは限らない」ってことです。
そのテーマの中でどの程度遊びを許すのか、テーマが変わることまで許すのか、まったくやらない日も認めるのか、
で、それは結局人生全体としてどの方向に進んでいきたいのか、というところから考えることになってきます。
というわけで、今日好きなように研究して、かなり溜まってから、重なってる部分をまとめて、研究発表という形をとればストレスなく進めていけそうだという話でした。
ちなみに、個人の人生の方向性に関するピンポイントな問題は、この辺の記事とか本とか読んでもらうと大体書いてると思います。
▶人生の軸を見つけるのは自分の物語を再構築することだという話
▶電子書籍『一問一答で「人生の軸」は見つからない』をリリースしました
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。