やっぱり解説は重要である。
さっき『シュタイナー入門』という本の中で、シュタイナー著の『ゲーテの世界観の認識論要綱』という本の話が出てきた。
シュタイナーが21歳にしてゲーテの自然科学に関する著作を編集したことを「驚くべきことである」と評価する流れでこのシュタイナーの本が紹介される。
この本のタイトルは聞いたことがあったが、それほどすぐに見てみようとは思っていなかった、
せいぜい「シュタイナーはゲーテに影響を受けている」ぐらいの認識で、だからまたゲーテを見ていくときに一緒に見ていけばいいかと思っていた、
でもこういう説明があると、ついでに見るというよりも、「ゲーテを見ていくというプロセスには、シュタイナーの視点を通して見ることも含まれるのではないか」と思えてくる。
そういう意味でも解説は重要で、
人は「なぜそれがそんなに重要なのか」「なぜそれがそんなに面白いのか」を、その人が興味のある対象そのものを見るだけでは感じることができない。
今の話で言えば、「ゲーテは何に取り憑かれて彼の自然科学やそのほかの分野にも広がる仕事を進めていったのか」、それはゲーテの著作に直接向かうだけでいいわけではない、
別の人(ここではシュタイナー)がゲーテについてどう考えたのかを踏まえて見ることでわかるゲーテの思想やその特異性があり、
こういった思想家に限らず、個人が興味を持って取り組んでることは基本的には人には伝わらない、説明しないと伝わらない。
何に興味を持って何をしているのかは、見れば聞けば読めば想像できる部分もあるかもしれないが、
でも大抵本人はもっと先のことを見ていて、「とりあえず今はこれをやっている段階」という位置付けであることが大半で、
たとえばギターをやっている人がいたとして、その人がギターをやる時の体感や位置付けは外からは見えない。
ただ音楽が好きなのかと思っていたら、人の聴覚に関心があるのかもしれないし、脳から指への意思の伝達と反応が気になるのかもしれないし、外からは見えてこないものが多いにある。
そこで、じゃあそれを楽しんでる側とすればどうすればいいのかというと、それの何に面白さを感じているのかを伝えていくしかない、
「しかない」というのは、勝手に一人でやって満足するだけなら問題ないが、それはその人にとってはどうしてもやりたかったりいつでもやってしまう類のもので、
その面白さや見方、その角度からの向き合い方を共有していくことは、周囲の人間に新たな楽しみ方を提供するものであり、
それによって昨日までそこにはなかった喜びを彼らは見出す。
個人の欲望から始めて世界や社会に対して役割を果たすことについてはこういう道筋もあり、むしろこれが自分を中心に置いた他者とのコミュニケーションで、
つまり、上辺のやり取りではなく、「自分の根源やエネルギーの源泉を無視しないあり方」と言える。
だから本人からすればすでに通り過ぎた話や技術や興味かもしれないが、自身の探究と並行してそれも地道にやっていく。
そのうち似た感覚を持つ人の存在に気づく、そこでつながる関係は面白く強固で素晴らすぃ。
▶好きなことは周りを置いていくぐらいに喋ったほうがいいのであるという話