最近、保育士の友達と話す機会があり、ちょっと前に園内で研修があったらしいのだが、そこでの子供への掛け声についての話が面白かった。
というのは、例えば子供が茶色の細長いものの上部に緑色をぐるぐるしたような絵を描いて見せてきたとき、先生側が行ってはいけない言葉があり、それは「上手だね」「これは何?」「木を書いたんだ」だという。
これらは子供に対して大人が枠を設定してしまうからで、「これは何?」と聞かれれば、「何かはっきりわかる物しか書いてはいけない」と無意識に感じさせることになる、
「木を書いたんだね」と言われれば、違っていた時に「自分の絵が伝わってない」と思わせることになるのだろう。
「事実」だけは言ってもいいようで、今の絵なら「緑色でぐるぐる描いたんだね」など。
ちなみに彼女はそのように言ったところ、「そう、○○を描いたんだ」と、何か忘れたが全く木ではない返答が返ってきて「あぶなー」と思ったらしい。
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ちょうど少し前に柄谷行人の『探求Ⅰ』で他者についての話があったことを思い出した、
▶経験の意味付けを行う価値観を強制的に塗り替える衝撃の発生源としての他者の話
この本の「他者」の定義は「自分と言語ゲームを共有しない者」であり、
多くの人が一つ目に思い付くであろう「他者」は、僕たちと意思疎通ができる時点で「普段よく使う言葉に対してのイメージ」を共有している。
彼らは同じ共同体に属する者で、逆にそうではない他者とは「子供や外国人」である。
だから他者との関係としては、「話す―聞く」ではなく「教えるー教わる」の関係になる。
それを思い出したので伝えてみると、「確かにそう」と言っていて、
で、ここでかなり話の方向が変わるが、このときこの内容とは別に、僕は「意外とこの方面からでも話が弾むのか」と思った。
というのは、彼女は普段保育士として働いているわけなので、基本的にここで扱っているようなややこしめの話にエネルギーを注いでるわけでは全くない。
で、僕もそういった話題をほとんど出すことはない、この辺はどちらかと言えば僕の好きな領域に近くて、こういった話題をどれぐらい出すかというのは割と考えるところなのです。
かといって極端にこれらをシャットアウトすると、その会話は非常に薄っぺらく、その人格じゃなくていいですやんということになる。
つまり、めっちゃ雑に言えばスーパーうわべの天気の話に近しい状態になりかねない。それはとてもつまらない。
かといって好きな話だけを好きなように喋るのも、それが楽しいのはそいつだけとなる可能性がある。
というわけで、何をどういう角度で話すとその場のめぐりがよくなるのか、を自然と考えるわけだが、
ここで思い出すのは、「有田脳」というラジオでくりーむしちゅーの有田哲平が昔、「合コンでどうすれば女性がプロレスの話で笑ってくれるのか」とかなり頭を使った、という話である。
さらに伊集院光は、これも細かいことは忘れたが「自分の好きなことにちょっとの社会性を持たせればいくらでも食っていける」と言っていた。
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これは、「自分の好きなことや得意領域が他者とどうつながるか」で、もう少し簡単に言えば、「好きなことや興味関心が誰かに面白がられるとか役立てられるとか、社会や周囲のためになるように何とか頑張る」という類の話。
有田哲平は合コンでモテるために「どうすれば女性でもプロレスに興味を持ってもらえるのか」と試行錯誤して、
結果的にそれはテレビやYouTubeで玄人ではない人にも笑って楽しんでもらえる話術となっていく。
全然いい例がぱっと思いつかないが、例えば、昔しゃべくり007かなんかで高田延彦あたりのちょっとしたモノマネをしてた気がするが、
そういうのも「じゃあどのぐらいの知名度で、どの場面を切り取れば全くプロレスが分からない人でも笑えるのか」を見極める必要があって簡単ではない、
このブログでも物理や素粒子の例を出すことはあるが、もちろん修士論文で扱ったようなゴリゴリの話をするわけはなくて、それはいきなり出してきても分からないしつまらないからで、
そういう意味では誰しも常に自分の興味と目の前の人の興味の重なっていそうな部分でやりとりをする。
でも相手側に寄せ過ぎるばかりでもお互いに楽しくないかもしれなくて、だからその間合いをはかっていくのは面白い。
自分の中にある最もピュアな好奇心とかエネルギーの原液をどれぐらい薄めたり変換したりするのかという問題で、
現状、特にこの話の落としどころは何もないんですが、とにかくこの友達に「自分と言語ゲームを共有しない者という意味での他者」などという話をすることになるとは一ミリも思っていなくて、
でもそれが割と普通に受け入れられたというか、この感覚がどれぐらい適切なのか分からないがなんか「通った」という感じ。
子供に限らず、勝手に幅を設定しないとか、思い込みで自分の範囲を定めないとか、全然そこを超えていっていいし、越えられるし、ということを自分でどれぐらい思えているのか、ということでもあって、
こういう切り口からだと、保育士として日々働いていて特に哲学とか思想とか本とかに興味がない人とも滑らかにつながっていくことを感じた。
個人的にはこれが人と会話することの面白さの一つだと思っていて、つまり、お互いのエネルギーの源泉が結びつくような瞬間。
修士課程の二年目の時に後輩と話していて、「なぜこの研究室に来たのか」という流れで、彼は「仏教の家系だったが子供の時に直観的に仏教が正しいわけではない、と感じて、その対極として素粒子の方に興味が出た」と言っていた。
▶ハンターハンターに学ぶ、「why」を語ることの威力と会話における重要な役割とは。
幼稚園の方に話を戻すと、少し前に「新しい国旗を作ろう」という時間があって、
彼女は自分が担当するクラス名の由来となった花の絵を、国旗に見立てた長方形の四角の真ん中に書いたのだが、
「そこで真ん中に描こうとしたこと自体が枠にとらわれている感じがした」と言っていた。
▶子供のこだわりに「そこはどっちでもいいやん」という大人はそこに違いを感じる繊細さがないだけなのではという話
現在、やりたいことや没頭できることがなく、でも何からやればいいかわからないという、人生と向き合い中な方向けに
●客観的な幸せや豊かさではなく、自分のコアや方向性を見定める
●ゼロヒャクのおもんなくそ真面目二項対立思考を手放す
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