ちょっと前に農業思想とか農学が気になっていろいろ見てたんですが、しばらくすると知りたかったことの大枠は大体わかってすぐに飽きました。
ただ最後の方になると、はじめは一つの塊にしか思ってなかった概念というか分野が、実は余裕でもっと枝分かれしてることに気づきました。
もちろん専門でやる人はその一つ一つを日々扱ってるわけですが、僕は一旦全体の雰囲気を感じたいだけなので、現時点でそこまで踏み込む必要はありませんし、
もっと言えば、非専門家はそんな枝分かれがあることすらしばらくは気づきもしません。
でもだからこそ、普通にやってれば大きい部分を捉えることができてラッキーなのです。
大学の講義の様にいきなり各論からスタートしてしまうと、全体の中での位置づけが分からないので混乱してしまいます。
そんな話です。
なぜ全体で受け取れるのがいいのか
ちなみになんで全体で受け取れるのがいいのかと言うと、部分だけに注目してる人には見えないものが見えるからです。
そして見たり感じたりした以上は何らかの変化が起きます。極端な例で言えば何か動きたいことが出てきたり考えが始まったり。
そういった知覚はエネルギーを受け取ったと解釈できます。花を見て美しいと思った人は感動という変化が起きてますが、何も思わない人には何の変化も起きてません。
勝手に感動して勝手にエネルギーを受け取ったことにできるかの違いです。
それをいい感じに変換して外に出せばエネルギーが循環していくというわけです。
ブログ記事一つ書くにしてもそういうところから始まるものです。
そんなわけで本題へ。
非専門家だからこそ、全体をまるごと受け取れる
農学と言っても堆肥論や土壌論などいろいろ分かれているようで、たぶんこれは物理でも素粒子とか熱力学とか、さらにその中でもいくつも分かれているようなものだと思うが、
そして実際に物理をやってるときにはその専門化された一つをやるだけでも大変なように感じていたが、農学という全く馴染みのない分野に移ってそれらの分化の様子を見てみると、そんな分け方一切関係なく全部見ていけばいいやんという感じになる。
これは専門としてやってる人からすれば、一つ一つしっかりした体系があるのに全部やるとか無理やろって思うのだろうが、特に専門でやる気がない人からすれば、そこの分類にうろたえることにならないのがいいところで、
というのは、専門家からすれば一つ一つの意義深さや名前から連想されるその背後の体系が見えているわけだが、
非専門家というか素人からすれば大雑把な分類でしかなく、その分類すらも言われて初めてそんなに分かれてるんや、という程度でざっくり農業としか見ていなくて、
だからこそ農業全体を見る中で、「必要があればその細分化された専門領域を見ていけばいい」という理解の仕方が可能になる。
細分化と自由な学び
これは非専門家の強みとも言えて、その対象に枝分かれした存在を感じることができないので、それがかえって全体をそのまま見ていこうという気持ちにさせる、
専門家であれば、一つ一つを追いかけていく必要があるように感じるところを、つまり、物理なら、「各分野それぞれちゃんと自分で手を動かして数式の計算をやっていかないとちゃんとわかったことにはならない」とか思ってしまうが、
非専門家が物理を知ろうと思う時には、物理の歴史や物理学とは何かという大枠から順番に見ていって、最悪、
「波動方程式を解き方は分からないけど量子力学のざっくりとした話は分かる」
ということもあり得て、そしてそれでいいのである、
必要になった時に自分でまた計算して確かめてみればいいだけで、そこの計算のためにまた巻き戻って微積分や行列、さらにその先で言えば群論や複素多様体とかをやる必要はなくて、
ざっくり「物理」というものをそのまま受け取っていくようにすればいい、というかそのまま受け取ろうとするときにはその中の細かい分類や分かれていることには気づかない、それが非専門家の良さと言える。
細分化された部分がスコトーマになることで返って全体を大づかみできる。
まとめ
この文脈での「非専門家」については、rangeという本がおもろいです。
▶人生を切り開く「柔軟性」について考えるのにおすすめな本3選
今回は学問寄りの話でしたが、非専門家によるアプローチとして、芸術については鶴見俊輔の『限界芸術論』とか宮沢賢治の「農民芸術」が近いです。
雑に言えばこのブログもここに入ってくると言えなくもないです。
冒頭の、エネルギーを循環させていくといったときの一つの形とか発想としてかなり有効です。