コラム(?)

日常や練習という「運動」と作品や本番は滑らかに移りあうという話

これは本題じゃないんですが、今回の記事の内容を、notebookLM という超ウルトラおもしろツールでポッドキャスト風に要約してもらいました。

興味ある人はどうぞ。保存したい人はこちら

以下、本編。

保坂和志の『試行錯誤に漂う』という本でモンドリアンという抽象画家の絵は「何度も重ね塗りされている」という話が出てくる。

プロのピアニストのコンサートと子供の発表会の違いは、「当日のための準備として普段の練習があるわけではない」ことだという。

子供はそのために練習しそれを本番で披露するが、プロのピアニストは普段の練習のその時間と本番が滑らかにつながっていて、極端に言えば、そこに区切りはなく、「ただいつものように弾いた時に、今日はそこがホールであり、観客がいた」というだけ。

恐らくこういう感覚だと思うんですが、ここで「運動」というのがキーワードになってきます。

最初のモンドリアンの話で言えば、「何度も重ね塗りしたその身体による運動の結果」として、そこに一つの塊として作品が生まれます。

エネルギーの波が一か所に集まることで粒に見える

これを見たときに素粒子のことが出てきました。

素粒子は波の性質と粒子の性質の両方を持っていて、これはどう考えればいいのかと言うと、真空という「場」があり、その「ある一点にエネルギーが密集した時」に素粒子が生まれたと解釈できるというわけです。

もう少し馴染みのある例で言えば、机に布を置いて、その真ん中を強く握ると、そこはもっこりした状態で固まるわけですが、それがそこに素粒子があるということです。

そこのエネルギーの密度が大きいから粒に見える。

で、もう一つ波に関しては、さっきの場というのは常に揺らいでいます。

あ、これは物理の話です、止まっているように見える物質もミクロのレベルでは常に揺らいでいて、それは「その表面で素粒子が生まれたり消えたりしているから」という理屈です。

このゆらぎが波なわけですが、それが一か所にギュッとなれば粒ができるわけです。

こういうイメージです。


「量子 Quantum ってなんだろう?」より引用)

「粒子と波動の移り変わり」と「練習と本番」の関係は同じ

で、これがさっきの本番と練習の感覚と対応するんじゃないかってことなんです。

つまり、「日常の練習という運動によってゆらぎが起こり、そのうちのある期間の波を一か所にギュッと集めてきたときに粒子として認識される、それが本番」

そう、だから素粒子の波動性と粒子性の話と同じで、波と粒はどっちの側面から見るかの違いであり、互いに入れ替わるように、練習と本番も両方は重なっていて、どこから見るかというだけの話。

この本番というのは作品ともいえるわけですよね。

ピアニストのコンサートなら本番ですが、画家であれば「ある作品ができた」ということですが、これも日常と重なり互いに移りあう。

本番のために練習があるのではなく、完成のために日常があるのではなく、ただ練習をしていることが、日々過ごしていることが、その運動が、裏側から見たときに本番であり、作品であり、その時点での完成品である。

つまりそれは本であれば、毎日書いているという連続的な運動がまずあって、そこから一定期間で切り取ることで一か所にエネルギーを集めたときに作品となり、それは日記でも小説でも思想書でもあるような、あらゆる境界が溶けあったエネルギーの塊。

もう少し情報発信っぽく言えば、それが一つの記事やコンテンツとも言えて、今生きていることとそういう塊は常に相互に移り変わる。

同じものをどの角度から見てるかということに過ぎない。

技術を身につけた先にようやく本番があるのではなく、技術を身につけようとしている今日、毎日の連続的な運動それ自体も一つの本番である。

 

毎日の運動にフォーカスした話

なぜ毎日書いて新しいコンセプトが生まれると嬉しいのか

準備をやめる本番意識について

準備をやめて思い付いた瞬間に今あるもので小さな完成品を作っていくと気分がいいという話