コラム(?)

量をこなすことがもたらす質とは別に、量そのものが感じさせる質があるという話

民衆にとっての芸術とは何か、ということが気になっていた。

『限界芸術論』の裏表紙に、

「五千年前のアルタミラの壁画以来、落書き、民謡、盆栽、花火、都々逸にいたるまで、暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた限界芸術とは何か。」

とある、これ。

少し前に見た中沢新一とアジカンのボーカルの後藤氏の対談記事でも壁画の話題が出ていた。

それは確か、芸術や音楽の起源のような文脈だった気がするが、そういうただ生きる中に紛れ込んでくる芸術的な何か、そういったものを少し掘り下げてみようとしていた。

この本にも「非専門的芸術家」という言葉が出てくるが、まさにこれで、いろんなことの非専門家になっていくのが面白そうというか、ちょうどいい感じ。

非専門家は枝分かれに気づかないからこそ全体のまま受け取ることができるという話

ここでは芸術ということになるが、つまり、専門家ではないという意味で、民衆にとっての生活に溶け込んだ芸術、

それは何か一つ作品を創るとかそういうことではなく、普段過ごす中に芸術的感覚を取り込んだ時それはどんな振る舞いとなるのか、そしてその繁栄として何が表現されるのか。
文学・芸術観と創造

ここで、芸術と直接関係ある話ではないが、ある表現や発信、個人の内から外にエネルギーが形を伴って出ていくプロセスを考えるときによく「量が大事」と言われる。

物理的な量の大小と質

これは質か量かという文脈で語られることが多く、

「質はひとまず置いておいてとにかく量をこなすことでクオリティが上がってくる、むしろ、大量を通過したことによる質の向上しか考えない」

という言われ方が目立つ。

ただ、今はその意味ではない量というものを考えたい。と言っても全くつながってないわけでもないが、

この量というのは「物理である」ことに価値があるのではないか。

なんというか、質というのは抽象的で美しさとかうまさすごさ、の印象があり、例えばすごく考え込んで生み出されたいわゆる質の高い作品があるとして、それに近いことは、圧倒的な物量によっても体感させられる。

これも量というよりは物理という言い方がしっくりきて、オーケストラの音圧とか油絵の表面の厚みとか。

でかさ・やかましさと質

コロンビアに行ったときに塩の大聖堂という炭鉱(?)を訪れた。

興味関心の幅を広げたいならば塩の大聖堂に行きムイスカ族の人と喋れば良いのである【南米旅行記②】

洞窟の奥深くで作業をしていると事故も多くあり、そのストレスや仕事のしんどさを和らげる癒しとして、キリスト教が入ってきて、その洞窟の各地に十字架が建てられるようになった。

今は観光名所として見て回ることができるが、そのうちの一つの十字架がとんでもなくでかい。

電飾が施されていて薄暗い中で淡い紫色の光が滲んでいてきれいなのだが、そんなことよりもそのスケール感に圧倒される。

この時の美しさというかすごさはかなりの割合がでかさから来ているように感じる。

昔、WBCの直前の壮行試合で阪神対オーストラリアの試合が京セラドームで行われたときに観戦に行った、思ったより人は少なく自由席だったので外野から内野まで歩き回ることができた。

小学生の時はよく甲子園に見に行ってたけど、中学生以降行かなくなり、確かそのときで十年以上ぶりだった。

野球中継はよく見ているが、久しぶりに現地に行き、最初に外野席に一つ席を見つけたので座ってみると、応援団にかなり近い場所で、これもすさまじい音圧を感じた。

試合の内容とか会場の空気以前に、球場内に入った瞬間の音圧、その空気の振動という物理現象が訴えてくるものがある。

眉村ちあきのライブで生で「声量!」というものを浴びたときにもそうだが、質と量については、量をこなすから質が向上するという以外に、物理的な量それ自体が上質を感じさせるということがあるように思う。

そう思ったときに例えば、小説についてもまずは分量が大事と聞いたことがあって、それは、最後までたどり着くか分からない中を耐えていくところに重要な何かがあるという話だった気がするが、

つまり、頭の中で構成を考えてそのイメージできたものを文字に移そうとするにも分量的な限界があり、

それを超えるところ、カオスを進んでいかざるを得ない不安の中で、でも最後まで書きあげた、まで行って初めて出てくる質があるということなのかもしれない。

量を通過することによる質

昔、所ジョージがテレビで使うちょっとしたギャグのようなものを紙にメモしていて、そのいくつかをYouTubeで喋っていたことがあった。

その時に言ってたのは「こんなものは1個2個考えたってしょうがない。100個200個考えて初めていいものができる」みたいなことだったと思う。

後半部分はあまり覚えてないが、とにかく、話は量を出してからだとということだった。

文章を書くことで言っても最初にちょっと書き始めて、いまいち上手くいかないからってそこでやめて何度やり直しても仕方がなくて、

これでいいのかいまいちわからないなりに、その日の数千文字を書き切る中でようやく出てくる「今日の核」のようなものがあり、それは一日単位ですらある程度の長さを書く中でしか出てこないもので、

なぜ毎日書いて新しいコンセプトが生まれると嬉しいのか

それは一時間なのか二時間なのか分からないが、5分書いてなんか違うとまたやり直したり、上手く書けない気がしてやめるのではなくて、

書けないなりにじっと座ってゆっくりとでも手を動かし続けることで出てくるその回のうまみのようなものがあり、これこそが量と質を考えるときの「質」なのだろう。

つまり、回数をこなし慣れていく中で上達するという質とは別に、ある期間長く続けていることでしかアクセスできない質があって、

それはスキルの向上によるうまさではなく、表層をじわじわと掘り下げていくことで初めて到達できるマントルのようなもの、

というか、それは地下深くまで掘り進めてアイテムとしてゲットするようなものではなく、

最深部にツルハシが当たり薄膜が破れ水が湧き出てきてその地層全体が潤う形で全領域にしみわたる何か、その意味での質がある。

「量 ∝ 質」ではなく「量 ⇔ 質」という質

だからなんやねんという話ではあるが、そういう物理的な厚みとしての量それ自体が感じさせる質があって、

めっちゃややこしく考えれば、量と質に比例の線形の関係があるというイメージではなくて、かといってよく言われるようなどこかで一気に質が上がるようなphジャンプみたいな非線形の関係でもなくて、

「量という塊、それも大量なもの」は、数学の「⇔」記号みたいにそのまま質と同値っていう感覚、「物量⇔質」という質。

そういえば、このブログも、始めてから3年経っていて200記事近くあるだけで、第一印象だとなんかすごって思われたりすることもあって、

これは、そうやって記事を書いていくことでスキルが向上しめっちゃおもろい1記事を書けるってことではなくて、百何十記事が並んだこのブログ空間それ自体が与える印象としての質があるってことで、

だから多さ、大きさ、長さに宿るエネルギー、量⇔質という質があるだろうということです。

「上手くなるためにいっぱいやろう!」ではなくても「物理としていっぱいあることが結果的にうまくやったのと同等の意味を持つ」場合があるのです。