2種類の表現
ジャズをやりたいという人に対して、
「表現って二種類あって、絵を描いて倉庫にしまっておいて満足な人とそれを見せたい人がいて、後者はコミュニケーションに当たる」
という話をしてる場面があった。
自分だけで満足するものなのか、それを人とやり取りしたいのか。
伝達か独白か
文章についても同様で、これはもちろんコミュニケーションである。ただ、だからといって言語を道具として何かを伝えるだけではない。
もっと簡潔に言うと、このブログでは最近「独白」っぽい形で書かれるくことが多く、これは直接何かを伝達しようという書き方ではない。
じゃあこのスタイルはどう捉えることができるのかというと、
いわゆるブログっぽい書き方は「何か人に伝えたいことがあり、それを言葉に乗せて伝達する」というものだが、
その一方で、吉本隆明が言うところの「自己表出」のような言語もあり、
これは動物の鳴き声やうめき声のように誰かに向けられるわけでは無かったり、思考の流れがそのまま表現されたようなもので、
何か伝えたいことがあってそれを言語の形で伝えるのではなく、絵を描いたり歌を作るように、「自分の内側にあるものを外に表現した一つの塊があり、それを他者と一緒に見ていく」という構造として捉えられる。
つまり、初めに伝えたい内容があってそれを言葉という道具で伝えるのではない。
例えば、絵で言えば、今考えてきたことは、なんか書きたい感じがあってそれを書くことで表現する、まずは。で、出来たものを人に見せる。
伝達が目的ならこれは、いわゆる図示とか図解というものに当たる、
一方で、表現という言い方をするときの絵は、海や山など自分が見たものとか、まだ形になってない自分の中にある景色を外に取り出してきたものと言えて、
そうやって自分に見えている感じを表現するというのは、文章であれば、「最初に何か内容があってそれを人に伝えるために書く」という書くではなくて、
自分が感じていることや内側の思考、その流れをただ言葉として置いて行く、
それを「独白」とさっきは言ったが、そういう形で書かれたもの、まずはそれができあがる、これがまず表現の段階、
で、その上で、それを人と共有することで、そこにある言葉の集まり、考えや感情の流れを周囲の人と楽しむというコミュニケーションに移行していく。
言語によって伝達されるのではなく言語の形で伝達される
だから伝えたい内容が先にあってそれを言葉を使って伝達するのではなく、
一人の空間で自分自身に向けて発される言葉、または頭に渦巻く流れを言語で掴み取ったものとしての言葉、その出来上がったものを人と共有し分かち合う。
言語によって出来上がった”表現”や”塊”があり、そのパッケージを一緒に遊んでいくという形。
この時、これはベンヤミンが
「精神的本質が伝達されるのは、言語を通じてではなく、言語そのものにおいてである」
と言ったことが思い出される。
つまり、言語でできた管に伝えたいことを押し込んで人にわたすのではなく、言葉が集まってできたぶよぶよしたものを、スマホの画面を見せるように共有するというイメージである。
そういう「書く」も存在する。
ちなみに情報発信としては前者の伝達的な書くが正しいと思われがちだが、これ以外の方法もあって、
というか伝達のために書くというよりは書いたものが結果として伝達されたという方が自然で、その方が読んで面白いものになりがち。
あらかじめ人に何か与えようとして生み出されたものではなく、その書き手のメモや取り組みを見て読み手が勝手に意味を読み取り価値を受け取るようなそういう図式、それもあっていい。
「個人に閉じた文章」に対する誤解
で、そうなると「それだと個人に閉じた話になってしまいませんか」という疑問が浮かぶが、
それはそうやって自分の問題意識や疑問とそれに対する考えを書いていったときに、そこに出てきたものがつまらないのであって、やり方の問題ではない。
ある問題やテーマについて深く強く考え、またその実践とそれらのフィードバックまで踏まえて何層にも積み重なる形で書かれたものは、それを見た誰かの考えを立ち上がらせ何か動きたくなる効果を持つ。
それが人に何の影響も与えないのなら、それは伝達的な作法で書かれていないことが問題なのではなく、
そいつまたはそいつが考えることがつまらないだけ、もしくは考えが足りてない、浅いということになる。
と言ってもそれはただの事実であって、それ自体が悪いのでもなく、
考えが足りてないのだから、人が興味を持ってしまうぐらいもしくは自然と影響を及ぼしてしまうぐらいそのテーマをもっと掘り下げて考え向き合っていけばよくて、
それがしんどいとすればそれは今そいつが取り組む問題ではない。
つまり、逆から考えて、そうやってどこまででも追求探求していきたいことがそこに書かれるべきである。
というか、そういう形で出てきていない言葉は力を持たない。
直接的な伝達というわけではない形での他者とのコミュニケーションを図る言語としては不十分でしょう。
そして毎日書くときの「書く」はこの形であることが望ましい。
それは各人の人生のテーマから生まれる問いと向き合い掘り下げ、日々のリズムを作る運動となるから。
▶練習とか準備とかではなく提出可能な運動の連続としての日々を過ごすという話