文章に関して、毎日ある程度の密度と分量で書いていく時期とそれほどかけない感じがするタイミングがあり、
その時は外に向いた文章というよリ、自分の中での声掛けというか内向きの、指針とかこうあろうというような文章であることが多い。
だからこの時に書かれたものはあまり記事やコンテンツという形にはならない。
でも実は本質的にはどちらも同じなのかもしれない。
文章の「外向き」と「内向き」
ここではひとまず「外向き」と「内向き」という区切り方をしておくが、例えば、ブログの記事のもととなる文章は外向きで、
今度はこれをやってみようとかこういう風にしてみようみたいな文章は内向きであるとする。
この割合は時期によってかなり変わってくる。
で、これまで外に向いた文章が常に生まれてくるような状態であってほしいと思っていたが、ここまで書いてみて思ったのは、
後に文章になっていく根源的なエネルギーはたった一つで、それに動きたいように動いてもらった結果として形になって目で見ることができる文章が外向きか内向きであるか、という違いでしかない。
これは動物の性別のようなもので、こちらの意図でもって介入できるのは「子供が生まれてほしい」というところまでで、それが男なのか女なのかはエコー検査の段階で初めてわかるというだけなのかもしれない。
もちろん情報発信という枠組みとそのメディアをエネルギーの循環装置と見立てている以上は、そこに乗せて運ぶことのできるかたち、すなわち外向きの文章がコンスタントに出てくることが望ましく、
そして一定の割合以上は外向きのものが出せるようにしようと意識はするものだが、文章というのは初めに形を決めて書かれるものではなく、さらに書かれるべきでもなく、
内側のエネルギーの流れが、意識的に制御できる範囲を超えたときに、手の運動を通して体の外にはみ出す形で現象化するもので、
だから体の中で渦巻くエネルギーの流れが激しさを増し、皮膚を通過するほどの爆発が起きたときに勝手に外に出てくるもので、
そしてその時になって初めて、それが内外どちらの方向をもった文章なのか判明する。
「自己の揺れ具合」と「世界における位置づけ」のバランスで文章の内外が決定される
そう考えたときに例えば内向きの文章、自分に対して「こういうことをやってみよう」「もっとこうしてみよう」などの誰かへの表明ではない形のものが書かれる時期に、
そうではなく、「もっと外に向いたものを書きたい、書かれてほしい」と考えがちだがこれはそんな単純な話ではなく、
内向きに書かれるのは、現在の自分の生活や人生単位での方向性、その指針などの揺らぎが大きくなっていて、
それをまた「秩序ある状態、あるべき状態に戻そう」という無意識の力が働くということなのだと思う。
外に向けて書かれる文章もその主体である自己があってこそで、それは周りの環境との関係で形作られる以上、
自己の確からしさが大きく揺らぐ時には、その主体による外向きの文章以前に、「不安定性の解消が期待される思考」が先に起こってくるに違いない。
結果として内向きの文章が選ばれる。
内外どちらの文章が書かれるかは、書く主体の安定度合いと、その主体と世界とのコミュニケーションやその世界での位置づけ、この両方の間のバランスを繊細に調整する形で決まる。
自分という一つの塊は常に揺れ動いていて、その揺れ動いた自己は炭素が4つの手足でほかの元素とつながるように、この世界のあらゆる物質、人間、現象などの環境と紐づいている。
このひもはばねの様になっていて、そこに加わる力によって自由に伸縮する。このつながりのある範囲がその自己にとっての世界であり社会である。
つまり、自己の揺れ動きが大きい時にはこのばねにはより大きな張力がかかり、世界に対する位置づけが狂う、もしくは世界が崩壊しかねないのだからその揺れを抑える機能が働く。
これが内向きの文章(または思考)が生まれる理由である。
一方で自分の側が安定であるとき、それとつながりあった世界全体は静的に見える。この退屈な環境にゆさぶりをかけるために力を加え、世界とのコミュニケーションを図ろうとする。
このために外向きの文章が生まれる。
これが文章が生成されるときのイメージで、だからその時々に応じて自分やそれを取り巻く環境の全体、文字通り全体の秩序の維持のために書かれる。
それがどちらを向くのかは書いた後にしかわからない。
▶【全天候型生活】変わらない安定よりも環境や気分の変化を取り込んだ全体としての安定という話

