「アウトプットしろ」と言われるが、これに関して「インプットとアウトプットを分離しない」はかなり有力。
例によってまたブログとか文章を書くことに限って進めていくが、じゃあなにか知りたいことがあって調べたり本を読んだとして、これはインプットです。
人によってはメモなどをするかもしれない。
でもよく言われるのは「そこで終わってても仕方がないからアウトプットしないといけない」ということ。
でもそれはもちろん簡単ではなくて、そこからアウトプット、つまり人が見れる形にするのはかなりエネルギーを使う。
それは考えることがいろいろあるからだが、一番の要因はアウトプットとインプットを分離してることにある。
つまり、適当にメモしたりインプットしたりして、「さて、今からアウトプットするか」という考え方になるとこれはしんどい。
これはアウトプットには必ず明確な答え、ゴール、結論が必要だと思っているからで、
「まだわからないことがたくさんあるから話始める権利がない」「間違えてたらどうしよう」「誰かに何か言われるかもしれない」「こんな適当な話をしてもいいと自分で思えない」
という気持ちになる。
ただ、経験上、それらが自分の中で満足できるほどに分かったときには、もうそれに興味がない。
▶知ってることは静的だが気づいたことは動的だから書くのが楽しいという話
調べる過程は面白く、そもそも別に調べようとかインプットしようと思ってすらいない。
人は自分が今一番気になっていることは自覚するしないに限らず、勝手にそっちに意識が向かうものである。
だから生活する中で不安なことがあったり、それこそ将来のことやこれから何をしていけばいいのか、今どうすればいいのか、なども含めて日常を過ごすうえでの引っ掛かりを解消したいわけで、
そのときには別にインプットなどという意識もなく勝手に検索したり人に聞いたり動画見たり、本読んだりする。
この時にインプットという意識はもちろんなくて、今それを解消する必要があるからそうしているだけである。
インプットとアウトプットを同時に行う
ここでまた2つあって、この場合は問題が解消した瞬間は新鮮な気持ちでアウトプットできる。
問題が解決したまさにその感動をエネルギーとして誰かに言いたい気持ちになる可能性が高い。だからある程度自然にアウトプットできる。
もう一つは、分かりやすく解決もしないままひたすらyoutubeを見てみたり、適当な記事を眺めていたりする場合。
これはこんなインプットでは何も言えることはないと思うのだが、それがインプットとアウトプットを切り離している発想で、そこの考え方を変えると違った結果が生まれてくるかもしれない。
インプットとアウトプットを同時に行う。
何か知りたいことや解消したいことがあって本を読んでるその模様をそのまま文章にしていく。
いくつかのやり方はあるが、例えば、読書やそれにまつわることをメモすることがあるなら、それをそのまま人に見せる形で書いていく。
「今『~~』という本を読んでいたんですが、そこで「~」と書いていました。「~」という本にも似たようなことが書いていて、やっぱり~~なのかもしれない。」
という感じで、もうそのまま公開するつもりで書く。
メモという概念を極力なくしていく、メモを書くならそれをツイートするつもりで変換してい書いていく。
そうすると、自分が調べたいことが調べ終って、いや終わってなくてもいいが、
自分が満足した時にはもともとの欲求を解消するだけの何かはゲットしたわけで、でもそこから仕切り直してメモを見返して整えてまとめて記事っぽくしようと思うとこれはかなりのエネルギーを使う。
一番知りたかったときの気持ちは完全に落ち着き、本人にとってもう過去になっている情報を「自分以外の人のためだけに整理する」ということなので、それはもちろん楽しい気持ちにはならない。
その問題と対峙する模様を書く
だからインプットが終わったときにはアウトプットが完了している形で書いていく。
別に答えが出なくても、結論が出なくてもよくて、といっても、自分がそこで満足してそれ以上掘り下げるのをやめたということは、もともとの疑問や問題を解消するだけの何かは見つかってるはずで、
つまり、その調べたものすべてをまとめようとか、一般的にそれで解決しそうな問題を引っ張り出してきて、それに対するアンサーをしようとか考える必要はなくて、
自分の生活上の今の問題を明らかにして、それを解消するために何に当たって、どう感じたのかを繰り返し書いていけばいい。
結果としてじゃあなぜこれ以上深堀しようと思わなくなったのか、どういう形で当初の目的は達せられたのか、
自分の個人的な話で終わっていてもよくて、というのは、もともと自分のためのメモをそれをそのままアウトプットできる形に変換しながら書いていく、という話だったので、
よく分からない誰かのことを考えて無駄に丁寧にとか、もっとわかりやすくとか、もっとわかりやすい何かが見つかるまでとか、明確な答えにたどり着くまでとか、学術的な根拠が分かるまでとか、そういうことはどうでもいい。
自分がメモしたいことをメモすればよくて、でもそのメモを知り合いの誰かが見ても書いてることは分かる形で書けばいいだけである。
メモしたいということは今それについて考えてるということで、その考えてる模様をそのまま書けばよくて、その都度頭の中を実況中継すれば、
「その特定の問題を抱えている人が、どんな考えでどんな行動をし、どんな発見があって、結局どうやって解決策を見出したのか、または見いだせなかったのか」、そのプロセスがそれはもう十分なアウトプットになっている。
誰かがよく言う「アウトプットしろ」のアウトプットとして十分すぎるものになっている。
インプットするということは情報を摂取するわけで、その大量に浴びる情報の中からたまに今ちょうど知りたいことにヒットすることがあるわけで、
そのときには、頭の中で、「そうか、こう考えればこうなって、じゃあこうすればいいのか」という考えが立ち上がる。その模様をそのまま書けばよかったのだ。
それでインプットがそのままアウトプットになり、まさに今の自分の興味関心好奇心というエネルギーだけを使って、随時新しく何かが生まれていく。
調べたこと解決したことを後から振り返って書くのではなくて、別にやりたい時はそれでもいいのだが、それはそれとしてやりつつ、今の関心や欲求や生活や行動がそのままアウトプットになるという世界もあるという話。

