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知ってることは静的だが気づいたことは動的だから書くのが楽しいという話

こんにちは、高本です。

今回は「知ってることは静的だが気づいたことは動的だから書くのが楽しい」という話です。

僕は「知ってることを書いても面白くないから気づいたことを書こう」って言い方をしがちなのですが、

そして体感としてはそれが間違ってないとも思ってたのですが、最近その理由が判明しました。

「気づいたこと」はまさに今、頭の中で流れていることなんですね。

つまり、「ちょうど今書きたい」ってことです。

頭の中で生まれてきて発生して立ち上がってきたトピックであり流れです。

それが手を動かすことによって外に出てこれるわけですが、逆に言うと書かない限りそれが詰まっていきます。

それって不健康ですし、しばらくすると消えていきます。

もしくはその発想や考えがそのまま自分の中に残って、血肉とでも言いましょか、積もり積もっていくわけです。

で、それ自体はいいことなのですが、でもそれが一度も排出されてないのは不自然だということですね。

それって自分の中で完結してる振る舞いです。

という話もできるんですが、今日したいのはそれではなくて、気づいたことというのは今頭に流れていることだからこそ、そっちを書いてる方が楽しいってことなんです。

知ってることを書いてもつまらない、みたいな言い方は何度かしていたと思うのですが、
それは気づいたことを書くのは楽しいってことです。

で、それは、そのテーマが今頭で渦巻き流れていることだからです。

つまり、”それ”は僕たちそれぞれの内部でぐるぐるうねり動き回っていて、外に出る機会を待ち望んでいます。

外に出たくてたまらないのです。めちゃめちゃエネルギッシュです。

だからそんなことを今その瞬間に外に出してきてあげるのです。

それが気付いたことを書くということです。

これは運動エネルギーがもりもりなわけですから、人に伝わるエネルギーも、昔考えたことを思い出しつつそろりそろりと書き出していくのとはわけが違います。

活きた新鮮なカツオなのです。暴れ倒している考えなのです。

そんな暴れん坊な気付きが人の心を震わせます。

だから「知識を知ってうれしいね」なんて文章とは比較にならないような脳裏に引っ掛かるおもしろい話となります。

これは受け手の目線ですが、書き手の目線としても、今頭で流れている話をするのだから単純に楽しいです。

いつ知ったかもわからない、いつの話かも定かではない、もうすでに自分の一部として僕たちと一体化している凝り固まった話を、こそいでこそいで引きはがしてその欠片を表現していくのは、楽しくないのです。

フローしてないので。

そうじゃなくて、いま浮かんできたことというのは、「あ、そういうことだったのか」という発見といのは、その直前まで無だったところから、生じてきたものです。

だから気づきというわけですよね。

それは形のあるものではなく捉えどころのない、今もうごめいているよくわからない生物です。

その脳内の生きた考えを、言語という道具で捕まえてお披露目するのが書くという行為です。

小学生の頃に鮎掴みをしたことがあるのですが、動き回ってる鮎を端っこにゆっくり追い詰めて一気に手で掴むんですね。

それを言語で行うのが、気付いたことを書くということです。

だから楽しいんです。

こいつをどうやって捕まえてやろうかという塩梅です。

「多分これがこうだから、こうなるのか」みたいなことがぼんやり浮かんだ状態から、それを書き出していく中ではっきりとした形になっていきます。

そんなわけで、「知っていることは静的で気づいたことは動的なんですね」ということを気づいたので書いてみました。

ここまでお読みいただきありがとうございました。