『コムギ粉の食文化史』という本を読んでみよう。
そもそもなぜこれが気になったのかと言うと、少し前に「捨てないパン屋」というパン屋のドキュメンタリーを見た。
店主が修行でスペインを訪れたとき、いたるところで小麦が育っていて「どの小麦が一番パンに適しているんですか」と質問したら、「そこでとれた小麦でパンを作るのが仕事でしょ」と笑われたと話している場面があった。
これは「どんな小麦でどんなパンを作るのか」とかではなくて、「小麦をうまく消化できる形に変換する技術としてパン作りがある」という価値観で、
これを見たときにじゃあ人はいつから小麦を食すようになるのか気になった。
今では当たり前にパンを食べているが、小麦を食べることができたというのはかなりの革新的なことで、
そして食事からもう少し広げていけば、身の回りのものをいかに個人の中に取り込むかというスキルや哲学、精神も関わってくるのではないかと思った。
一つの経験や情報や歴史をどう食すか解釈するか受け入れるのかにまで広がる話なのだろうと。
狭い道に深く入っていくと途中で広がる
そんなわけで小麦の食文化史を見ていくと、17ページに
「本書ではコメについてあまり触れることができないが、コムギ粉独特の調理特性が、常にコメと裏腹になっていることをときどき思い出してほしいと著者は願っている」
とある。
まずそんなことを願ってる人がいるというのがちょっとおもろい。
でも誰もが興味を持つわけではないような領域についてずっと研究してきた人がいるからこうやって簡単に参照できるわけで、他にも
「小麦粉の獲得には硬い外皮を突破するための臼の発達が必要だった」という話も、産業革命あたりでよく出てくる「道具の発達によって文化が進んでいく」というのと似た構造になっていて面白い。
というか、マルクスは資本論を書くにあたって機械の発展史の一部として石臼のことを詳しく調べていたらしく、
小麦の食文化史という極めて狭いところを攻めているようで、臼という道具の発展から資本論や工場、機械装置にまで出てきた。
狭いところに入っているようで、どこかの折り返し地点を過ぎると今度は広がっていく。
おそらくこれは砂時計のような形になっていて、広い間口からどんどんポイントを絞って見ていくとその先で行き止まるように思えて、でも一気に道が開けて他の大きな分野と接続する箇所があることに気づく。
これが物事を掘り下げる中で面白くなっていく瞬間である。
個人の根幹を中心に置く
例えばYouTubeで人気のコンテンツの一つで、一般になじみのコンテンツやゲームを専門家がその視点から遊んだり指摘していくというコンセプトの動画がある。
例えば、石原良純が飛行機ゲームで天気の話をしたり、さかなクンがどうぶつの森の釣りをしながら魚の話をしたりといった感じ。
例えば芸人なら最近はこたけ正義感という現役の弁護士芸人がお笑い界で当然のようになっているやり取りの中から弁護士目線で「そこ問題ですよ」とか指摘したりするようなことがある。
自分の根幹にありそうな部分に沿って進めていくと一切他と関係するタイミングがなくなってくるように思うが、
さらに進んでいくとその視点から日常のいろんな場面でそのエネルギーの源泉的な部分と交わる事柄が出てきたりする、
そういうコミュニケーションが面白いと思っていて、だから深めるほどその体系は普遍性を持つ。
保育士の友達が、絵を描いて見せてきた子供に言ってはいけない言葉として「これは何?」などがあるとして、その理由は「何かはっきりわかる物しか書いてはいけないのだ」と思わせてしまうからだと言ってたが、
これは「個人の思い込みや周囲の何気ない一言や振る舞いでその個人が自分に制限をかけてしまう」という話で、
僕はじゃあそれをいかに取っ払うか、その外に出ていくか、そもそもその枠ができないようにするには、というところでずっと考えてきたことがあり、
これらが全くそれとは違う文脈で過ごしている人とも同じテーマを共有する、つまりお互いに異なる世界線を進んできていてもそのテーマが二つのラインの交差点になる。
そんな感じで、自分のコアというか根幹にあるような感覚興味関心欲望を無視せずにそれを使って周囲と接していくという過ごし方がある。
それがおもしろく、というか本来そうあるべきで、ないがしろにしてしまいがちだがが、そこを無視せず中心においてコミュニケーションしていく。
もっと言えば相手がいるいないに限らず、その根源的な部分を中心において環境を捉えなおす、
つまり街を解体しその文脈でその視点で見たときにどんな景色になるのか、身の回りの物事や考え方やアイテムも含めて自分の根幹を中心にしてパズルを組み替える。
それは自分の学問・方法を考えていくことでも自分にとっての限界芸術でもあるのかもしれない、とにかく中心に据えるものを誤魔化さない。
その根源的なるものについては、「人生の軸」とか「毎日書く」という方法として考えている。

