コラム(?)

「神は細部に宿る」というのは「それはそんなぐらい大事なことなんですか」と問われているという話。

こんにちは高本です。

今日は、

「神は細部に宿る」とは、「そこに神が現れるほどに隅から隅まで気になってしまうぐらい、それは自分にとって重要なことである」という意味ですよね、

という話です。

この前、平成ノブシコブシの吉村氏が韓国で舞台をするって言うドキュメンタリーを見てたんですね。

で、それを見てると、細かいところに目が行き届くかどうか、というのはそれをどれぐらいやりたいと思ってるのか、というのがかなりでかいなと思ったんですね。

というのは、この動画は、吉村氏が、韓国の劇場で、お笑いのライブをするということなんですが、そこに出演する芸人から演出からほぼこの人がやるのです。

ほぼ総指揮みたいな感じですね。

で、まず出演する芸人に関して、もう初めからある程度海外受けするであろう人ではなく、

つまり、「Don’t worry, I’m wearing pants!」でおなじみ、とにかく明るい安村氏のようなタイプではない人を集めたわけです。

ただ、そこにハイキングウォーキングが入っていて、それは、もししっかりネタやる勢が音響トラブルなども含めて全然うまくいかなかったときに最後の砦として、

この人たちならまあ何とかなるだろう、といういわば保険みたいな感じって言ってたんですね。

で、僕はシンプルにあーそうやって考えるや、というかそんな感じで考えてるんやって思ったんですね。そんなしっかり考えるのかと。でもこれ当たり前ですよね。

だって、自分がずっと韓国でお笑いやるって言う構想を三年ぐらい思い描いてたみたいなんですが、それがようやく実現できるとなって、自分側である程度決めることができてってなると、

絶対成功させようとか、上手くいってほしいとか、思い描いてる形を実現しようって、思うはずですよね。

だから、本当にいろんなパターンを想定して、もしこんなことが起きてもこれでカバーできて、じゃあこっちの場合はどうなる、って感じで、細かいところまで詰めていきます。

なんとなくはエネルギー低い

で、仕事とかバイトとか勉強でもいいかもしれないですが、よくある状況として、「ほんまにちゃんと考えてる?」ってのがありますよね。

お客さんのこと考えたらもっと臨機応変にこんな感じに動けるはずやろ、とか、この日までにこれをやることになってるんだから、なんでもっとこういう風に考えないの、とか。

で、何となくやるのって、ぼやけてて煩雑だからエントロピー大きいわけです。だからそこから取り出せるエネルギーは低くなります。

だから何をやるにしても、一つ一つ丁寧になんでそれをそうしようと思ってるのか、ということを考えていったほうがいいわけです。

たとえば、ブログで言えば、記事のサムネイル一つとってもなぜその画像なのか、みたいなことも本来は理由があるべきで、文体もなぜそういう書き方なのか、という理由があるはずなんですね。

それがないって言うのは言ってしまえば適当にやってるわけです。なんとなくです。

で、なんとなくの分、それを見た人の印象にマイナスの影響が出る可能性が高いです。

ブログに限らず、そうやって細かく注意を払えるところとめんどくさくなるところがあって、でも周りを見てみれば僕が雑にやってる部分を丁寧にやれてる人がいたりするんですね。

たとえばなんですかね、身だしなみでも、部屋の掃除でも、何でもいいんですけど、履歴書の文章とか、自分で何か作品を作る場合とかもシチュエーションとしてはあるかもしれません。

丁寧にやれてることとそうでないことがあって、その違いってどこから来てるのかって気になってたわけです。

というか、ちゃんとやったほうがいい気がするけど、でもめんどくさいと思うこともあって、それってどこから来てるのかと、

で、冒頭に戻るんですが、この吉村氏のハイキングウォーキングを抜擢した理由を聞いた時に、なるほど、と思ったんですね。

つまり、自分がその対象とかその時間、空間にどれだけの思い入れがあるかどうかがすべてってことですね。

それをやりたいと心から望んでいて、それに対しての思いがあって、だからこのまま行った場合周りの人はどう思う、どんな印象を持つって徹底的に想像するし、

だから、じゃあここはこう変えよう、この可能性を考えると、こっちにしておいた方がいいな、とか細部にまで目が行き届くわけですね。

「神は細部に宿る」とは言いますが・・・

そういえば、「神は細部に宿る」って言い方があると思うんですが、それって

「だから細かいところまでちゃんと考えなさい」もしくは、「だから細かいところまで自分はちゃんと考えよう」って思っても多分仕方ないんですね。

「ちゃんと細かいところまで考えてしまうぐらい、ほんのちょっとの何かも見過ごせないぐらい、そこに神が宿るかのように気にしてしまうぐらい、今のあなたにとってそれは重要なことなんですか」

というだけなんです。

吉村氏なら、どの芸人に出演してもらうか、出る順番はどうするか他のあらゆることも全部計算しておきたいだろうし、漫才師なら衣装とか立ち位置とか声量とか気にするだろうし、デートするなら普段ちょっと出かけるよりチェック項目も増えるでしょう。それだけなんだと思います。

だから、例えば、じゃあさっきのブログのサムネや文体の話で言えば、そこが気にならなくてめんどくさいと思ったとき、それはブログやそれを含む活動全体が雑ということではないんです。その人の中でほかに気にしているところがあるってだけです。

つまり、その人ごとにどんな目的で何を大事にして今それに取り組んでいるのか、ということが違ってるので、誰もが同じところに目が行き届くということではありません。

もはや何を言いたかったのかよく分からなくなってきましたが、そうですね、こういうことです。

人は自分がめちゃくちゃやりたくて成功させたくて実現したいことなら勝手に細かいところまで気になる、ってことですね。

だから、他の人ができていたり、上手く工夫していたり、丁寧にやれてる部分で、ちゃんとできてないなとか、めんどくさく感じてしまうな、ってときは、それにそこまで興味ないということなんです。

で、もし自分はこれをやりたいはずなのに、なんかこの部分がめんどくさくなってしまうってことがあれば、それはそのやり方が向いてないってだけです。

取り組む角度を変えれば、勝手に注意深く丁寧に慎重にやっていきたくなるということです。

まとめ

結論としては、細かいところに目が行き届かないのは、それに対する思いが足りてないってことです。つまり、妄想力がもう一声欲しいってことです。

本当にリアルに思い浮かべて想像してこの場合はこうなるこれだとこうなり、って考えれば絶対変える必要があったり用意する必要があったりすることに気づくはずです。

そうです、思い出しました。例えば野宿した時は、本当に5日ぐらいそこで過ごすわけなので、どんな道具が必要かってめっちゃリアルに想像するわけですよね。

たとえばその時は水は買って行くことにしたんですが、じゃあそれもどれぐらい必要なのか、調味料はどうするのかとか、充電用のバッテリーはどうするか、とかめっちゃ考えます。

そのときは友達と二人だったので、行く前にいろいろ話し合ったんですが、もともとはその友達が一人で行くところに僕も参加した形なんですね。

つまり、そのサバイバル風のやつをやりたいという気持ちは多分彼のほうが強いわけです。

ってなると、僕も自分なりにいろんな想定はしましたが、おそらく彼のほうが、もっとリアルに細かいところまでシミュレーションしてます。

実際、現地で明日は何する、今日は昼から何する、料理どうするとかの話も毎日してましたが、基本的にその彼のほうが意欲的な感じはしました。

それはずっとそんなことをしてみたいと思っていた彼と、なんかおもろそうやから行ってみよって思った僕の思い入れの違いから来てるわけです。

まあこういうと熱量の多い少ないの上下の話みたいな感じですが、必ずしもそういうことでもなくて、どこに問題意識があるか目的は何か、ということの違いでもあります。

具体的な行動に降りてくる前の、こっちの内側で頭の中で見えてる映像の違いですよね。

どんな絵を浮かべてるのか、何を実現しようとしているのか、というその風景が違うので気になるポイントが変わってくるってことです。

だから、店長側から見ればバイトの人がこいつ全然考えてないやないか!って思ったとしても、それはそうですよね。

店のこと、商品、客、バイト、経営、もろもろをひっくるめてうまくやっていくことを、そんな絵を浮かべて動いている店長と、

とにかくその時間をやり過ごしてその後遊ぶことを考えてるバイトくんではチェック項目が違うに決まっているのです。

今、細部に神を見出すぐらい大事なはずのもに、ちゃんと神は宿っているのか、

つまり、生活の中で丁寧に扱えているのか、隅々までエネルギーが行き届いているのか、埃かぶってる箇所はないのか、思い返してみたいところですねえ~。