「私は本業が講師で~」という形で主張をしてる人を見た。
なんかおかしい。
講師が本業というのは違和感がある。
というか、そうはなりたくなという感じなのだが。
講師が本業というのは、前を向いていない感じがする。閉じた感じ。
自分がやりたいこととか目指したいものがあって、そっちに向かって、つまり前を向いて毎日進んでいる中で、たまに後ろを振り返ったときに数人いるのが見えたから、
「そこはでかい石があるから気を付けてね」とか「そこ流れ速いから慎重に」とか言うのであって、自分はその場にとどまり続けたままずっと後ろを見ていては、どれだけ熱心に自分のところまで来れるかを伝えていたところで、全く魅力的ではない。
だってあなた動いてませんやん、いつからそこがゴールということになったのか、レースはまだ終わっていない。死ぬまで終わることもない。
すべては中継地点であって、足を止めてアドバイスをしてるだけの人間の言葉は力を持たない。
教師とここでの講師の違い
例えば教師は似たような仕事に思われるが、全く違っていて、教師は何か一つの場所をゴールと見立てて、そこにたどり着くことのみが正解であるという言い方はしない。
その人にはビジョンがあって、子供たちにどうなってほしいとか、どうはなってほしくないとか、教育をこう変えたいというものがあって、その実践の場として今日の授業がある。
つまり、子供たちも、教えることも全部含んで全体として前に向かってる。
逆に言えば、これが教育について語ることが主になると、本業が講師ということになる。
教育について考えつつ、実際に生徒の前に立ち授業をして、そこでの知見を次の世代に伝えていく方が自然な振る舞いだと思う。
だから足を止めて後ろを見て喋ってるだけの人は、もっと言えばそれを声高らかに主張している人には違和感を覚える。
本業というのは前に向かって進む活動であるべきなのだ。
だから教えることを目的に学ぶことにも違和感がある。
正確には、教えることだけを目的とするもの。
自分が一歩ずつ進んでいくために学んだことが誰かの参考になるかもしれないから伝えるのであって、その伝える部分が主体となっているのはなんか違う。
教えるのは本来副業であるものだと思う。
講師の仕事と純粋な人助けの違い
ここで言う副業は、お金がどうこうというより、人生における活動としての副というニュアンスで、
でもこうなると人助けだけをしてる人も含まれてしまうのだが、それはまた違っていて、だからこの違いを少し考えてみよう。
教えることも人助けではあるのだが、そうですね、つまり、教えることでお金をもらうという働き方がメインである生活に違和感があるのかもしれません。
人助けとは、本来、お金とは関係のないところで行うものであって、でも資本主義的にはそれが結果としてお金の形で対価が返ってくる可能性があるというだけ。
だから教えるというのは、いや、ちょっと待ってください、例えば身内が事故にあって辛い思いをしたので、それを避けるためにどんなことができるのか、
ということを講師として話して回る人がいたとして、そこには違和感を感じないと思います。
となると、シンプルにビジネス講師みたいな人が気に食わないだけなのかもしれない。
でもじゃあ仮にビジネス講師で考えてみるとして、その人が子供のころ貧乏で苦労したから自分でお金を稼げる力をなるべく多くの人がつけていく社会であってほしいと思い、そういった活動をしてるとしたらどうでしょうか。
多分そこまで嫌な感じはしなそうです。どういう伝え方をすればいいか、とか、最近の状況に合わせて勉強もしてるだろうし。
となると、やっぱり後ろだけを見てる人が違う感じがするのでしょうか。
後ろを見ることは人生の主たる活動ではない
そうですね、だから、もう今は動いていない、そういう意味で現役でない人の講師的振る舞いに違和感を覚えるのでしょう。
つまりビジネス講師なら、別でビジネスを今もやってる人の話だから入ってくるのであって、その時点で講師以外のビジネスをしていない人が講師として振舞うことにおかしさを感じるのだ。
でも例えばプロ野球選手の場合はどうでしょう。
現役を引退して、そこでの経験をもとに講師として全国を回って話をしてる人がいた場合どうでしょうか。
その場合は、その過去の話をすることだけをメインとして活動するならやっぱり気持ちい感じはしないかもしれません。
つまり、今はまた勉強してることや取り組んでること関心のあることがあって、それは例えば、スポーツ医療とか、アスリートとお金についてとか、スポーツにおける心理学とか、
そういった文脈に身を置いて、その方向で日々前進してる人の、自身のプロでの経験を踏まえた話だから成り立つのだと思う。
成り立つというよりはそういう講師としてのあり方なら自然なように感じる。
だから結局今その方向に動き続けているのかということだ。
自分が生きる世界線の過去の一点、またはある期間での出来事を、すでに足を止めた状態で話し続けている、かつそれを人生におけるメインの活動だと表明していることに違和感があったのです。