昔書いた「人の特殊能力に気づけるようになれば自分の特殊能力も分かるという話。」という記事を、さっきちょうどたまたま読んで、
冒頭で、
ファーストコンタクトであーこういう感じの人ねって分類されてしまうとそれはもうその人の中で過去に何度も出会ってきたタイプの人間ということだからそこまで興味を持たないわけです。でも次から次に「ん、どういうこと」「なんでそんなことしてんの」「なにそれ」って出てくるとやっぱりそれは人として面白い。
って話をしてたんですが、
この前まさにそのままいわれたのを思い出しまして、やっぱ自分が思ってる通りになるもんやなあってのを、ちょうど今思ったのです。
速攻カテゴライズされる過ごし方
というのは、ある人に「僕は仕事柄、子供から大人まで結構いろんな人にあってきてるんですが、なんかあんまいないタイプですね」って言われたんですけど、
これは割とそういう風に振舞ってきている自覚がないこともなく、それは僕の中で「そういう人生の方がおもしろそう」って思ってるからなんですが、
つまり、「一つのラベルで速攻カテゴライズされるような過ごし方」は面白くないのではってことなのです。
それは人としてどうかというよりも、どこかにすぐ分類されるということは、その日常は「よくある何か」になってるわけですよね。
講義をサボって夜通し麻雀するとか、バイトやサークルに明け暮れるとか、逆に大真面目に研究に打ち込んでるとか、しっかり会社で働いて残業もしてとか、
休日はめいいっぱい遊びまくってそのまま仕事に向かうとか、給料はパチンコ競艇たばこで全部なくなるとか、リュック一つで旅に出るとか、
そういうのは言ったら一つのパターンというか人間像としてあるわけですね、何となく全員の中に。
別にだからと言ってそれですべてを判断されるわけではもちろんありませんが、ファーストコンタクトでは「うっすらとした先入観」は立ち上がってくるものです。なんとなくこういう感じの人なんかなと。
すぐに分類される生活リズムは本人の根源と一致してない
で、まあこんなこともどうでもよくてw、どうでもいいんですが、シンプルにそういう過ごし方って満足できないですよねってことなんですね。
だって、パターンとして捉えられるって、「その人らしい過ごし方」はしてないわけですよね。
よくあるどこかで見たことある誰かのよくある日常と同じことをしてる。
僕は他にもそうじゃない振る舞いというのがあって、それが面白いんじゃないかと思ってるんですね。
つまり、人から見て面白いとか魅力が~とかはあるかもしれませんが、そんなことよりも、
「さっと分類されてしまうような人間像と直結するような生活のリズムってどこかで違和感が来るんじゃないか」
ってことなのです。
人によってタイミングはいろいろあるかと思いますが、それってエネルギーの源泉と一致してない、もちろん。
なんとなく人間の、もしくは日本人の振る舞いをいくつかに分けたときに、そこにある程度共通してくる動き方をしているわけなので、実際の興味関心に100%根差してはいない。
だから本来は居心地が悪いというか、「なんか違うな」ってなるはずで、でもそれを当たり前として受け入れていて、というかそこに気づくセンサーが弱くなってる。
で、元の記事の話で言えば、そういうものを取り戻していく時に、「人の特殊能力に気づこうとすることって大事ですよね」って話をしてたんですね、たぶん。
▶人の特殊能力に気づけるようになれば自分の特殊能力も分かるという話。
感覚を取り戻すことについて
▶やりたいことが分からない読書録7『流れをつかむ技術』桜井章一