知の論理という本がありまして。
確か東大に入学した学生が「学問とか大学での学びそのものについて考える」ために作られたテキストの続編なんですね。
ここに出てきた話については昔レポートでもちょっとだけ触れたことがあるんですが、
最近見返してて「論理ってそういうことか」となったのです。
で、この文脈での「論理」がすごく面白い。
「論理」は固定されたものではなく、関係を動かす枠組み
通常、主体があって対象があって、「その主体が対象を認識する」という認識の仕方をイメージするが、
その認識のときには言語で捉えていて、そうなると「その時点でその言語が作る世界の中での認識」ということになる、
それは「その言語が作る論理や関係の中にいる」ということで、だからどうあるのが望ましいのかと言うと、
自分が対象を認識する、その論理をしっかり明らかにして、その論理を更新することで認識の仕方も変わっていくような、そういう動的な主体と対象の関係。
だからそこで「物を認識するときの枠組み」が論理ということになる。
曖昧さやランダム性を重視するのも世界を捉える一つの論理
その論理としてこの本で挙げられているのは、例えば芸術家的な直観的なインスピレーションや、レヴィストロースのブリコラージュのようなその場でつぎはぎで作っていくという論理、
そして面白いのは、一つの論理で簡単に扱えないような複雑なものに対しては、
「曖昧性や未決定性を含み込んだ論理のあり方を想像しなければならない」
という話があり、
何が面白いのかと言うと、
このブログなどでもランダム性はかなり重視しているが、そのランダム性や曖昧性というのは、ここで言う論理の一つであったということ。
つまり、「世界の中で、何かを認識する、またはある世界で生きていくときにランダム性を自分の中に組み込んでおく」というのは、
「そのランダム性という論理によって世界を認識したい」ということ。
だからこれは一つの論理だったことなる。
さらに言えば、「直線ではなく蛇行しながら、ランダム性を引き受けながら」という言い方をしたりするが、この蛇行というのも物を捉えるときの一つの論理。
さらにそれらと直線的な規律的な感覚とのハイブリッドとして「1/fゆらぎ」というものがあり、そうなるとこれもまた一つの論理となる。
1/fゆらぎという論理で対象を認識しようとするとき、そこに「調和と混沌のバランスの度合いを感じ取ろう」という認識の仕方になり、「老子的な論理」という言い方もできるのかもしれない。
人生の軸もまた一つの論理
例えば、これを拡張していけば、「人生の軸」というのも一つの論理ということになる。
自分の人生や人格や世界を認識するモデルとして、
「それまでの経験やイベントや感情の起伏や価値観のあらゆる側面を、限りなく抽象度を高めることで一つのキャッチコピー的に捉えようとする」
という論理。
これは当然絶対的なものではなく、でもある状況、ある価値観、ある期間の人間にとって、
つまり、「勉強して大学に行き就職して結婚して子育てして、、、」という、それまで人生を捉えてきたこれまた一つの論理に対して疑念が生まれ、でも「それを更新する新たな世界の見方という論理」を持たない人にとって、
少なくともしばらくの間はそこでばらけた物事の辻褄を合わせることのできるかもしれない論理である、という位置づけ。
だから、それで対応できなければ次の論理を見つけてくるか、別の論理と掛け合わせるか、その時々でまた更新していくことになる、
そのようにして、自分と世界、人生、日常との対応関係を上書きしていく、
それをこの本では
「対象との、あるいは他者との関係のなかで自己変容していくようなダイナミックな主体概念を模索する」
と言ってる。
要は、物を認識するときの論理やメカニズムの方に意識を向けることで、主体と認識の固定された関係の外に行ける。
そうやって関係のあり方や捉え方を動かしていく、より自分や周りにとって気持ちのいい方向に更新していく、そんな見方を獲得していく。
その運動は「自分の方法を作る」とか「道を開拓する」に通ずる。
