コラム(?)

小林秀雄の「本居宣長」連載から考える、長く続けるために必要な固定ポイントとは

小林秀雄は本居宣長についての連載を十一年七か月やったらしい。

つまり、十年以上かけた連載をまとめたものとして『本居宣長』という批評の本ができたが、それだけ長い時間をかけてやっと出来上がるものがある。

それはよく言うように「焦らず時間をかけてやりましょう、早くやるのだけがいいわけではないですよ」ということではなく、長くやるには「長くやれる方式」をとっている必要があって、どういう環境であれば長くできるのかに意識を向けるということ。

本居宣長を8時間研究するという生活は通常、成り立たない

極端な話、「本居宣長を研究していこう」と思ったとして、毎日8時間それだけをやる生活は成り立たないわけです、通常は。

経済的なことももちろんあるが、16時間起きてるとしてその半分をその一つの対象に費やし、それを10年間というのは、よっぽどの熱量ややらざるを得ないほどの何かがないと厳しい。

数学者とかにも言えることかもしれないが、それはあまり健康的ではないという感じがしていて、もちろんそれでいい人がやってるわけですが、「それだけをやり続けることの毎日」という人生の過ごし方は個人的には望ましくない。

「一日の流れの中にそんな一角がある」という中で10年経った時に「その研究が終わりに近づいていた」の方がいい。

1つのことだけでいいというのは、それは良くも悪くも圧倒的に平均から外れた特性や情熱ってことになり、

だからここがややこしいんですが、そういう人は本居宣長だけをやってるようでもっと上の階層ではその行為に対してまた違った解釈をしていて、その別の情報空間を駆け回っているわけですよね。

「よくそればっかりできるな」というのは、一番階層が下の具体的なアクションだけを見てる人の言うこと。

ある周期ごとにそれと向き合う固定の時間だけ設定されていればいい

で、例えば、僕はそれは望ましくない、という言い方をしましたが、つまり、一日の一部に本居宣長を研究する時間があり、また別の時間には別のことをやっていて、

そこには音楽もあるかもしれないし畑や旅や書道や何があってもいいわけですが、そうやって「いろんな時間がバランスされたものとしての一日」を過ごそうとしてるってことですよね。

これが気持ちいいと感じていて、よく一つだけに集中できるなってなってるわけですが、これもまた別の人から見たときには、「そういういろんなものをバランスしたものとしての一日という”一つ”の塊」の繰り返しに生きている人、と見られるかもしれないわけです。

その人から見れば僕が数学や本居宣長だけを研究してる人に感じるように、「それだけでいいん」ってなっててもおかしくない、というかそれが普通の反応なのかもしれない。

だから何を言ってたかと言うと、小林秀雄は雑誌の連載の中で本居宣長の批評をしていたわけですが、10年も続けるにはそれぐらいの温度感がちょうどいいってことなんだと思うのです。

ハマったときに短期間で没頭するタイミングがあるのは何も変なことではないですが、

長く続けるには定期的にそれと向き合う「固定ポイント」がある周期で存在していて、毎日それだけをやるわけではないが、でも一日の中で常に緩く意識は向いている、それは強弱があり緩急があり、数十分から数時間はそれに集中するが、あとは全く別のことをしたり考えているときにふとリンクするような形で、改めてそこに意識が向けられるような、そんな距離感。

ちなみにこの専門特化しない感覚については、↓の記事で触れてますが『RANGE』という本が面白いです。

人生を切り開く「柔軟性」について考えるのにおすすめな本3選

週一回のゼミがあるだけで他の全ての時間にも緩いセンサーが働く

もうちょっとかみ砕くと、と言ってもこれで通じるか微妙なんですがw、僕が大学院生だったときは、いわば物理の勉強や研究をすることが、大学院生としてのいわば人生なわけです。

でもその中で数学の「群論」が必要になってきました。それをやることがその大学院生としての人生を前に進めることになりますが、でもそいつのメインは物理を研究することであって、群論の研究ではありません。

だから群論を8時間やる日常にシフトしてはいけないわけです。

もちろん今日一日はその数学だけをやるということはあるかもしれませんが、永続的にそうなるわけではなく、そうなっていいわけでもありません。

かといって、現状のその人生の進めるには群論が必要なように感じています。

となると、その大学院生の一日の中に、またはその繰り返しのどこかに群論に触れる時間が必要ってことになります。

だからゼミをやるのです。

毎週一回、数人で集まり、その二時間は群論の勉強会をしようと。

そうすると、

実際に集まってやるのは一週間で二時間かもしれないが、その二時間のための準備の時間がそれ以外の日に生まれ、また別の用事で出向いた図書館で群論の本が目に留まるかもしれないし、適当な論文や資料やノートを見ていても群論に関係するところに目が向くことが増えてくる、緩くアンテナが起動し始める。

だから週二時間のゼミや、個人的なそのための準備という「強い意識」と、それ以外の日中の「弱い意識」の緩急のあるセンサーの網が立ち上がってくる。

「長く続けるために固定ポイントを作っておく」というのはこういうニュアンスです。

このゼミが小林秀雄にとっての本居宣長連載と言えるのだと思います。

メインの活動とそれを進める道具としてのサブの活動に分けて捉える

最初の方で本居宣長を8時間やる人や数学者の話をしましたが、

今の例で言えばそれに当たるのが、物理科の大学院生にとっては長く緩く続けていくものである群論を専門として研究する人です。

つまり、「自分にとってのメインの活動とは何なのか」、そして「それを前に進めるサブ項目は何なのか」ということです。

サブ項目は短期間で一気にゲシュタルトを作って「メインの方を進める道具とする」か、逆に一日や一週間のある領域に固定点として配置して「長く緩く並走させる」か、

これもまたそのメインの活動から決定されるものです。

例えば一回旅行に行く時の現地語の勉強は前者であり、趣味などは後者に当たるイメージです。

「人生の軸」というのはそのメインの活動の方向付けを行うものであり、それがエネルギーの湿地となり、そこから外部の存在とのコミュニケーションが始まるわけです。

エネルギーの源泉から湿地へ

それが「開拓」から「整備」の流れです。

その全体を「人生ちゃんと遊ぶ」と言ってるのでした。

もっと言えば、全体として緩い中の一部に秩序を持たせるというのは、1/fゆらぎ的な感覚でもあります。

なぜ「ゆらぎ」は現代における重要概念なのか【前編】

そういえば似た話をすでにしていました。↓はどの範囲にまで秩序を持たせるか、バランスのとり方についての記事です。

独学または自由研究における自由・不自由性の問題は人生や生活にまで拡張されるという話