コラム(?)

「自分・世界・その間にあるもの」を別々に考えるのではなく全部をまとめて扱える論理を探求していきたいという話

松岡正剛の『テスト氏』のページで「雷鳴の一夜、ヴァレリーは「世界と自分のあいだに落ちているものがある」「それは方法だ」と見抜いた。」とある。

この話自体よりも、ここにある「世界と自分の間にあるものを見つける」という感覚が大事で、人はそれを欲しているように思う。

「自分が思う自分や人やその人生」というゲシュタルトがあり、また別でこれまで生きてきた中で構築されていった「その人にとっての世界や社会」というゲシュタルトがあり、

その「自分にとっての自分らしさ」でもう一方の「世界や社会」を生きていくことができないように感じるから「何をすればいいのか分からない」ということになっていく。

「人生で何をすればいいかわからない」そんなときに考えてみたいことと根本からの解決策

「ヴァレリーはその両者の間にあるものを『方法』と見抜いた」というのが元のページでの話だが、それが実際どうなのかは別に今はどうでもよくて、

「その二つの間にある間にある方法見つける」というよりも、まずその両者を「どういう論理で認識しているのか」、そこから考えてみてもいい。

「自分ってこんなもの」「世界ってこんなもの」「人生ってこんなもの」という自分なりのイメージを思い浮かべるとき、それがよくわからん誰かの話とかテレビで言ってたことから来ている可能性が高くて、

例えば「いい子にしてるとクリスマスにはサンタクロースが家に来てプレゼントを届けてくれる」って両親の話を聞いて、「この世界にはサンタクロースがいるのだ」と考えているわけで、

「この世界は悲惨で辛く苦しいものだ」というイメージを持っている人がいたとして、

というかここでの「イメージ」はさっきのサンタクロースのも含めて死ぬほど雑に言語化しているが、実際にはこのイメージはもっと複雑で、

「この世界にはサンタクロースがいる」「人生とはつらいものだ」レベルではなく、そんな簡単に喋れるようなものではないけど、あくまでも本題に進みやすくするための省略であって、

それで話を戻してじゃあ「この世界はこの社会は悪い方向に向かっている」という体感があったとして、

でもそれはテレビのニュースを見てるから、SNSを見てるから、ということは十分にあり得て、「自分が何かを認識しているそのパラダイムや論理は何由来なのか」に注意しておく必要がある。

で、ここまでを踏まえてもう一度ヴァレリーの「自分と世界の間」という言い方に戻ると、

そこにあるものを見つけようとしてもいいけど、その前に僕たちとしてはじゃあ「その時の自分とか世界ってどういう論理で考えているのか」と一旦思い返しておきたい。

「『自分』と『世界』がまずあって、その間に何かが落ちている」

というよりも、つまり、串の両端にこの二つが刺さってるというよりも、

「一つの論理が、自分のようなものと世界のようなものという二つを包み込んでいる」

と考えると、この二つの間に広がる空間も込みでそれら全体の輪郭をなぞっていくような認識の仕方になり、

だから「この時に選択されている論理が、あいだにあるもの(=ヴァレリーが言うところの「方法」)すら決める」ぐらいのことで、

むしろ「自分、世界、あいだをまとめて扱える論理を各自が開発、開拓、構築していく」というスタンスが自然なのだと思う、例えば「エネルギー循環」もその一つ。

(エネルギー循環については、ブログの趣旨的なものプロフィールなど。)

関連

この文脈での論理については「ものを認識する論理、それ自体について考えておこう」という感覚がめっちゃ面白い話とか、以下のレポートの最後半部分。

文学・芸術観と創造

世界を認識するときの論理も含めて、自分の方法を作っていくことについては、

自分の方法を作るとはどういうことか

全体性については、

非専門家は枝分かれに気づかないからこそ全体のまま受け取ることができるという話

【全天候型生活】変わらない安定よりも環境や気分の変化を取り込んだ全体としての安定という話

など。