ジェイコブコリア―という人を最近知ったんですが、何やら面白そうな話をしてる気配がしたので見てみました。
途中で、「音楽の感情的な部分と理論の部分のバランスはどうやってコントロールしてるんですか」という質問に対して、
「音楽の音が好きになった、誰かが後付けした理論が好きになったわけではない」
と答えている場面がありました。
感動の原風景に立ち返る
たしかに、理論が好きなんじゃなくて音が好きなんです。
理屈も面白いですが、最初に触れた音楽宇宙の原風景があるはずで、
それ思い返してそこに浸る形で向き合うというのが、この場合で言えば「音楽を面白がる」ということなんだと思います。
小学生の時はファンモンとグリーンが流行っていて、友達のお父さんの車ではよくポルノグラフィティが流れてました。
だから僕の音楽の最初の方の体験には、そういうJPOPがあると思うんですね。
洋楽は We Are The World を中学の英語の授業で聞いて、意味も分からなかったけど、家に帰ってから速攻調べてもう一回聞きなおしました。
高校ぐらいの時に見てめっちゃ覚えてるのは、サイモンが審査員のあの有名な名前忘れたけどあのコンテストの、ブルーノマーズの曲で踊ってるやつ。
これか。
音楽への感動としてこういう光景があるわけですね、たぶん。
歌って踊って弾いたりするパフォーマンスでありながら、本人たちが楽しんでいるという時間や空間が好きなのかもしれない。
ちなみにブルーノマーズはこれのライブ感が最高です。
あとはボブディランもミスタータンブリンしかしりませんが、この動画のやつがめっちゃいい。
あとはこれのaskaも凄まじいのと、
同じので、このsalyuもめっちゃいい。
つまり、この辺に僕にとっての音楽の楽しさの根源みたいなものがあるはずなんですね。
常にあるのはあの時の感動と、それによって想像できるようになった未来の一コマ
これは何にでも言えて、それを好きになるとき、理屈じゃなくてそこから感じ取れた何かがあるわけです。
文章を書くにしても、これまでに衝撃的な読書体験があったはず。
そこの感動があるから、そんなものを作りたいとか楽しみたいという気持ちになるのであって、メリットとか有益とかそんな理屈の部分で動き始めるわけではない。
岡潔が数学は情緒であると言ってたのにも近いかもしれない。
小林秀雄との対談本の『人間の建設』の中で、
「数学としてはどう考えても矛盾する二つのテーゼを、一つの体系に放り込んでも矛盾しないことが明らかになったが、でも数学者からすればそんな数学は納得できない。」
という話が出てきます。
そんなどう考えても矛盾するに決まってるとしか思えないものが、実は矛盾しませんでした、と言われたところで、「じゃそんな数学をやろう」とはならないのだと。
つまり、理屈の部分でいくら証明が付くからと言って、最後には感情の部分で納得しないことには先に進むことがない、
という意味で情緒ってことだと思うんですね。
で、自分でやろうと思えば確かにやり方を理屈や理論として知りたい瞬間もあるかもしれない。
でもそれはあくまでも最低限の話であって、助走であっててロイター版でしかない。
常に見ているのはそんな元の体験や、それによって感じられるようになった未来の一コマ。
それを忘れて、ただやることだけが、小ぎれいに小器用にやることだけが目的となってしまっては、もったいないというかおもんないわけです。
初めて出会ったときの感動さえ常に心に残していれば、大きく道を逸れることはない。
内なる小宇宙を豊穣にしてくれるのは、理屈や論理ではなくかつての一瞬の感動です。
DコードとAコードの違いは言葉で二分されるものではなく、ただの周波数の連続的な移り変わり
「私の母は日常の音を聞くように仕向けた」って言う場面があります。
音楽家は日常の音がすべて自分事として入ってくるようになるわけです。
僕は書くのがメインなので、日常の体験を踏まえて何か言いたいことが出てきたり、それを何とか言葉にしようと自然と考えるようになりますが、
アーティストの場合は音についてそうなるってことですよね。
日常生活の全ての瞬間の音をインプットとするようなセンサーが働く。
それはこの人たちが特別なのではなく、センサーを動かそうとすることは誰にでもできて、それが音をもっと楽しむということなのだと思います。
その後、「Dコードを聞いてAコードに感じた」と話すくだりがある。
言葉で扱うとDとAは違うものですが、本来周波数の違いでしかないのだから、そしてその共鳴の気持ちよさが本質なのだから、
そんなはっきりした違いとして扱えることではなく、もっと滑らかに連続的に移り変わっていくもので、
その連続性を感じるとか味わうとか楽しむとか、その機械的な規則からの逸脱やずれやゆらぎが、その人の音楽ということになる。
とにかく「それの何が心の琴線に触れたのか」という最初の感動に、そいつにとっての「それを楽しむ」ことのエッセンスが詰まっている。