感覚・感性を磨く

自分を真面目と思っている人の意外とそうじゃない瞬間に注目したいという話

こんにちは、高本です。

最近、『戦略的不真面目の実践』という本というか小冊子のようなものを書きました。

ここでの真面目というのは、「誰かに当たれられたことを特に疑いもなく受け入れてそのままやること」で、

それを続けていく中で窮屈さや違和感が押し寄せてきたときに、意図的に不真面目な振る舞いをしていく、という話なんですね。

で、僕が大学一年生ぐらいの時に実際そんなことを思って色々考えたりやってみたことを踏まえて、あえて不真面目にするとはどういうことか、みたいなことを書いてるんですが、

意外と、「ものすごく真面目だったわけでもないかもしれない」ということをさっき思いまして。

つまり、真面目だなんだと言いながら、子供の時にすでに今でも通ずるような感覚を持っているんじゃないかってことなんですね。

なんというか、その時難しいことごちゃごちゃ考えるでもなく、なんか勝手にそんな振る舞いをしてしまっていたようなことに、今の自分にも共通する気持ちよさがあるのだろう、ということです。

中学高校の真面目じゃなかったかもしれない話

で、そのメッチャ真面目だったわけではないかもしれない、と思ったエピソードなんですが、中学の時、卒業間近に文集を書くことになったんですね。

で、僕はそういうのがなんかいやだなと思ってました。

そういう時って大体みんなそれっぽいことを書くわけですよね。

なんで最後だけそんなちゃんとしたいねん、みたいなことを思ってたんですが、授業の関係でその時間をとることができなそう、ということで、一回なくなりました。

ラッキーって思ってたんですが、最後の最後で、急遽やっぱり書きましょうってことになったのです。

で、こっちは一回なくなったと思って喜んでますので、反動で余計に気持ちがシナシナになります。

というか、今思い出したんですが、それも時間がなくてやらないはずだったのに、元気な女子たちがどうしてもやりたいみたいなことをごねたのでした。

まあ今思えば別にそれぐらい適当に書いてればいいだけなんですが、僕はなぜか全部嘘の話をしようと思いました。

そして「僕の好きな時間」というタイトルで、「中学三年間で掃除の時間が大好きだった」、というきもちのわるい作文を書き始めたのでした。

「僕の好きな時間は掃除の時間です。掃除をすると気持ちがいいからです。たまに気乗りしないこともありますが、そんなときはより一層いつもより掃除に励みました」みたいなことを書いてた気がします。

ということをふと思い出しまして、こいつのどこが真面目やねんとさっき思ったのです。

そして流れでもう一つ思い出しました。

学級委員的なこともしてたのですが、修学旅行で各クラス男女一人ずつの学級委員10人で出し物をするという案が出ました。というか、先生がしてほしそうでした。ダンス的なことだった気がします。

でも半数は全然やりたくありませんでした。結局多数決になったのですが、同数でした。

一人休んでいて、もう一人は司会だったので、確か4対4だったと思います。

で、どうするか、となったのですが、先生が司会の子にもどっちに手を挙げるか聞きました。彼は反対の方を選びました。

つまり、反対派の勝利です。

これで何とか切り抜けたと思いました。

が、なぜかやることになりました。細かいことは忘れましたが先生のごり押しでやることになりました。明らかに仕組まれた裁判です。

だからこれはおかしい、と思って、別に結果はどうでもいいんですが、その先生の不正をいっぱい思い返していました。

で、最終日練習してたら、僕は普通にやってたつもりでしたがその先生に「なんでそんなたらたらしてるねん」みたいなことを言われたので、一週間ぐらいかけて必死に論理武装していたのを放出しました。

そしたら「やる気ないんやったら帰ってええで」と言われたのでそれはまあ帰るわけですよね、

で、しっかり体操服を置き忘れて、友だちに家まで届けてもらうということになったんですけども。

なんかこういうのを思い返してみると、意外と従順でもなかった気がしてきました。

でも人それぞれ自分の気持ちよさというのは、こういうところにあるんじゃないかと思ったりします。

他のみんなはそうしてるところで、なんか違うことをしてた瞬間というか、それは別に人に反抗することに限らず。

そういえば高校の時も、毎日授業終わりにやる英単語のテストのやり方が謎過ぎて一回めっちゃ抗議してました。

ちなみにこれどう思います??

毎日単語帳の決まった範囲をテストするんですが、確か100個ぐらいが範囲になってて、そこから10問出るんですね。で、次の日は次の100個から10問です。

でもまいにち100個ずつ進んでも、一発短期記憶で終了なので、全然残らないと思うんですね。

で、僕は1日200個でもいいから1週間同じ範囲でやったほうがいいと思ったのです。

で、それを英語の先生に言いに行ったらその人は権限がなかったようで、後で僕が担任の先生に呼ばれて言いくるめられました。

何も考えてなかった頃の振る舞いにヒントがあるかもしれない

元の記事とか本ではあえて不真面目にしていく、と言ってましたが、意外と奥の方では昔からその感覚があったのかもしれません。

でも、こういう昔から自然とそうしていた振る舞いの中に自分にとって気持ちいい状態というのがありそうです。

さっきも言ったように別に反抗してた話を思い返すということでもなく、好きなものでもやりたかったことでも人に喜ばれたことでもいいんですが。

やっぱり人生の軸も日常も子供の時の感動をベースに考えていくのがよさそうという話

これも何回か出てきたことがある気がしますが、僕は人に勉強聞かれるとか好きだったんですが、だからブログもそんなスタイルになっていってるんですね。

それが一番自然な状態で自然にできるのだと思います。

それをああしたほうがいいとかこうしたほうがいいとか、それこそ学校の勉強や生活もそうですが、そういう自分にとっての自然な状態を正としたときのノイズになるような情報がいっぱい入ってくるとおかしなことになってきます。

多分なんでもそういう風に考えられて、例えば、昔柔道やってたんですが、僕は結構小技が好きだったんですね。

背負い投げとか大外刈りみたいな派手なやつじゃなくて、ちょうど相手の重心のいいタイミングを狙っていく感じがおもしろくて。

さっきは前の技を2発続けたから次はもう一回前に行くと見せかけて後ろの技をかけてみようとか、そういうことを考えるのが好きでした。

ポケモンだと毒とやどりぎのタネと守るでいい感じに間合いを取りながら削っていくとか、ドラクエ8だとククールが好きで、9だとパラディン、チョコットランドだとホーリーナイトという補助役みたいなのが好きなんですね。

ハンターハンターだとグリードアイランド編が好きで、遊戯王だとデッキ破壊系が好きなんですね。

ということを考えるともう、メインストリーム系戦術は向いておりませんw

僕にとっての自然な振る舞いとか好きな感じはそんな感じなんですね。

過去そうだったように生きていかなければいけないという話ではない

で、これは昔そうだったから今もそういう風にしないといけない、というのとは違っていて、

あくまでも当時何の意図もなく好きなようにやってた時にそうなっていたような姿に、自分にとっての心地よさのヒントを見出すこともできるということです。

それをフル無視してしまわないような過ごし方が気持ちいいってことです。

というか、それを全部なかったことにして、どんどん外部にやりたいこととか楽しそうなことを探そうとすると、しんどくなっていくのだと思います。

だから過去やってたことに縛られに行くのではなくて、そこにあったことの抽象化から大事っぽいことを抜き取ってくるイメージです。

豪快に脱線しましたが、真面目と思ってる人にもそうじゃない瞬間があって、そこに当人の根源的な欲求や心地よさを見出すことができるかもしれない、という話でした。

真面目過ぎる人の努力に対する勘違いと「余裕」とは何か、という話。