コラム(?)

思考や感情や意志と切り離されたところに本来の自我があるらしい話

シュタイナー教育などで有名な、ルドルフ・シュタイナーの共同体論を見ていると、

「映画や演劇を見てるときの感動と実生活で嫌なことがあって流す涙は違っている」という話が出てくる。

僕たちは自分の思考や感情や意志と一緒になってるそれを自我と思っていて、自分が考えると思って考えていて、自分が悲しいと思って悲しくなったりするのだが、でも本当の自我はそれではなくて、

自我というのはそうやって考えたり感情的になったり何かやろうとしている自分をじっと眺めている、そいつが自我なのだ、ということを言っている。

で、演劇や映画などで涙を流したりするときには、その本来の自我で見ていて、純粋に自我を体験しているのだという。

逆に普段は自我と感情が一体化していて、ひたすら客観的に体験するということができない。

そうやって感情や意志や思考と切り離された自我を体験できるために芸術が必要だというわけです。

で、これを見たときに、ちょっと前に潜在意識とか無意識的なことを考えていたので、まさにシュタイナーも同じ話してるではないかと思ったです。

ちなみにヨガ行者で思想家的な中村天風も同じことを言っていて、体も思考も自分ではなく、本来の自分というのは、そこにエネルギーの様に注ぎ込まれて体や頭を動かしているオーラとか魂的なものだと。

オーラとか魂とか潜在意識とかいうとあまり入ってこない人もいるかもしれないが、ここでは名前はどうでもよくて、とにかく、

何もかも自分が考えたり感じたりたり決定したりしてると思っているそのそいつは自分や自我ではなく、本来の自分というのはそれをじっと眺めているやつですよ、と。

これは真面目な人は現実と一体化しすぎているという話にも通じていて、

以前「戦略的不真面目」として、人から与えられたことやそうしないといけないと思っていることから意識的に距離を取るという方向で考えた記事もあった。

真面目過ぎる人の努力に対する勘違いと「余裕」とは何か、という話。

シュタイナーもそんな話をしているというのが面白いのと、シュタイナーはそういう自我を体験できるのが芸術だという立場。

で、だからこそ実は演奏する側は純粋自我を体験できていない。演奏するにあたって思考したりしていてその自分と一体化しているから。

逆に観客側もその演奏について「分かる」とか「理解した」と思う時にはちゃんと体験できていない。

そういう分かるとか分からんとかではなく、ただ純粋にそれを眺めての感動が起こるかどうか、そこが芸術体験の本質的な部分。

というわけで例によって何の落としどころもないが、前提にしておきたいのは、自分が自分と思ってるその自分は本当の自分ではない、ということ。

P.S. そういえば直近のロンドンハーツで、品川庄司の品川祐が「俺はどんだけ尊敬してる人でも50%リスペクトで、50%はまじでバカにしてる」的なことを言ってたけど、これもニュアンスとしては遠からず。

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