コラム(?)

練習とか準備とかではなく提出可能な運動の連続としての日々を過ごすという話

ちょっと前にYouTubeを見てたら、野良の手品師なのか修行中の人なのか、コメントの要望に合わせて手癖というか手わざを披露するという動画が出てきた、

その時の視聴者からのコメントは「シャッフルしながらトランプの枚数を減らしていってください」というもので、

アドリブというか、実際にはそのコメントを見て考えたうえで動画を撮ってるのでラグはあるけど、もともとある技ではなく、その指示を満たすテクニックを考え出して披露するという形式だった。

つまり、すでにある一つの手品を練習してそれを見せるのではなくて、もともと一つ一つの技術はいろんな場面で使われているのだろうが、それの組み合わせとか応用で、お題に沿ったパフォーマンスをしていく。

もはや手品とかでもない日々の指の運動が結果として手品となる

それは厳密には手品というよりも、指とか手のスキルのようなものかもしれないが、ここで思ったのは、やっぱりこの運動の部分が何をするにしても大事になってくる。

何のネタを練習するとかではなく、ただ手を動かしていく、何か新しい手品を開発するとかでもなく、ただただ本番でも出てくるような手の動かし方をしていく。

ギターなら、何の曲とかではなく、ただ指を動かしその場でメロディーを奏でていく、文章なら何を書くとかではなくただ今日も書いていく。

その毎日の運動がそのまま本番と滑らかにつながっていて、それはいろんな言い方ができると思うが、その運動で通過した箇所が作品や本番だとか、逆にその運動の延長に本番があるとか、その運動自体が本番であるとか、その運動の中に本番があるだとか、いくつかの状況はあり得るが、

とにかく、何をとかでもなくただそれをやっている日々というのがまず大前提としてあって、その運動やそれによるエネルギーが、例えば最初の話で言えば、そのまま一つの手品となるわけで、

ギターならその何小節かが今日のフレーズとなり、文章ならその痕跡が一つのブログ記事やその延長としての本となりもする。

練習と本番の境界を溶かす

こういう話は最近よく出てくる気がしないではないが、特に今回はそのことを強く感じた。

日常や練習という「運動」と作品や本番は滑らかに移りあうという話

というのは、この手品の動画であれば、なんというか、別に視聴者のコメントをもとに一つ種を作ってやった、または作ってやろうという形で生まれた気配が一ミリもない、

つまり、これはただの日常ってこと。

視聴者とのコメントを介したコミュニケーションという日常に「次に大勢の前で披露するかもしれない手品の芽」が生まれ始めていて、

もしくはそこでの手の使い方が、将来に向けての訓練となっていて、だからとにかくすべてはと言ったら大袈裟かもしれないが、普段の運動がベースにある。

それはある作品やパフォーマンスに向けた練習なのではなく、ただ今日それをやるという時間を過ごしたことが、練習にも作品の欠片にもなっていく。

むしろこっちこそが本番であり、通常の意味での本番とか作品というのは通過点である。

通過点を目標に頑張るわけではなく、今日体を動かすことの繰り返しがいつの間にかそこを通り過ぎさせる。

「提出可能」という取り組み方

だからこの手品の人であれば、もし毎日こういったことをしてるとすれば、急に誰かに、「今ちょっと軽く見せてよ」って言われたときに、いつものごく当たり前の動きを運動をすれば、それがその人のためのパフォーマンスとなる。

ギターにしても毎日適当にそのときやりたいように弾いているから、といってもそれは作品の中の一部分とかではなく、それ自体が一つの塊をなすような、一つの曲やフレーズとなるような形でやるわけで、

手品で言えば、シャッフルしながら手元のトランプが減っていくような、それ単体で手品と言えるわけではないかもしれないが、でも間違いなく一つの技術、テクニック、スキルとしてあるユニットにはなっているような、そういう形でやっているわけで、

文章なら、満足いくものが出てくるまで書いたり消したりするのではなくて、多少満足できない部分があるにしても始めと終わりのある読み物として書いていくからこそ、今日ブログを書こうとしなくてもすでにいくつもの出来上がったものが存在しているわけで、

つまり、何をやるかどうやるかとかではなく、ただの毎日のある一つのゲシュタルト、固まり、フレーズ、作品として成立する形での運動それがもうパフォーマンスの始まりであると言える。

後から編集するとか繰り返し練習するとかによって初めて成立するものではなく、確かに多少整えることや直前に練習することはあるかもしれないが、

それはその運動の成果として一つの何かを生み出すためにあるのではなくて、すでにもうそこに出来上がったものを最後に調整する意味合いでしかない、

つまり、日々の運動は後に手を加えられることを想定して行うのではない、常に提出可能なものとして取り組まれる。

普段の運動の中に本番に向けた期間は入ってこない

この緊張感が必要なのであって、それは書くことで言えば、このまま人が見ることのできるものである、という意識があることでしか生まれない表現や考えの小さな始まりがあって、

ちょっとまた後で考えようという意識で書いたメモには絶対に現れることはない。

そしてその後で考えるタイミングはほとんどの場合やってこない、なぜなら今日は今日の運動があるから、

それをやめてもう一度考える時間やすでに考え書いたことに手を加える時間とするならば、それに押し出される形で、日常のその他の活動にしわ寄せがいく。

そしてその取り組み方をする場合、そのもう一度考える時間は特別なものではなく、日々確保する必要のあるものなのだから、当然書く、または考えるにまつわる時間が増大し、それは日常の過ごし方全体としてのバランスを損なう。

ギターなら今日、今日の気分で好きなように弾きながらでもそれが一つのフレーズとかメロディーとして聞こえる形でやるからこそ、

「ちょっとなんか弾いてみてや」って言われたときに、いや別に言われなくても、外でちょっと適当に弾いてみることがその毎日の延長というかそれと全く同質のものとして「そこにメロディーがある」という状態を実現できる。

「最近この曲を練習中やねんけど今はここまでしかひかれへんねん」というのとは全く違う。

それは練習中か、練習終わりの2パターンしかないデジタル状態で、練習中の間はいつでも本番ではない、という状態。

これは今日も一つの本番という認識がなく、未来の特定のある一瞬のために今日を費やしているのと同じ。

練習と本番はフラクタルであり、今日という練習は未来の一点から広がる本番の一部であり、その本番という領域は両側に無限に広がる練習の一部である。

こう考えるとき、一日の中に存在するのは、今日の運動のみである。

準備をやめて思い付いた瞬間に今あるもので小さな完成品を作っていくと気分がいいという話