感覚・感性を磨く

往年の名選手の体の使い方が最先端の理論から外れてないことからも個人の感覚の重要性が分かりますよねと言う話

かなり前なんですが、プロ野球評論家の高木豊のチャンネルでトレーニング施設に潜入するのがあった。

施設を立ち上げた人にバッティングを解析してもらう。

その人は、肩や手の細かい動きをチェックしていて、角度や握り一つで力の入り具合が変わる。

実際にポーズを変えて体を引っ張ってみると、ふらふらするときとびくともしない時が出てくる。

体の関節の一つ一つに人それぞれしっくりくる状態があるらしい。

トップクラスの選手ほどその細かいパーツに敏感らしいんですが、

これって「人体を一つの塊として捉えてどう動かすか」ではなく、「一番小さい単位を関節と見て、その複合として一つの動作がある」と考えてるってことです。

関節の一つ一つの動きを言語化して意識に上げる

つまり、思うような結果が出てない選手というのは大づかみになってるんだと思うんですね。

なんであっても、自分が言語化して、「それ」として捉えられるところまで分解していく必要がある。

「なんとなくこんな感じかな」でやってることは、「今の自分にとっては大きすぎる単位」で、

つまりもっと小さく分割して自分の意識で捉えられるところまで分けられた方がいい。

ブログなら適当に記事を書くのではなく、「それによってどうしようと思ってるのか」

記事単位なら、「どういうものとして捉えて、どう書いていくのか、どう対峙するのか」

それを自分が言語化できるところまで分解していきながら、最後にその総体として統合して、「ブログや記事という世界」を捉えないとダラダラ同じことやってるだけになる。

というのが野球に関してあるのだと思ったんですね。

つまりなんとなく「指」「手のひら」「腕」とかではなく、その内部の筋肉や関節の動きに意識を向けていく、

だって別に手とか腕というのは、「僕たちの目で捉えることのできる塊」というだけであって、

そのサイズでの捉え方が野球という競技で結果を出すのに最適な単位とは限らないわけですよね。

自分にとって、またはその対象を扱う上でベストな単位を考える

他の話で言えば、「今取り組んでる競技や活動や意識を向けているものを捉える単位がそれでいいのか」を気にしていく。

人生全体に意識を向けるとしたときに、「漠然といい感じにしたい」と思っていては変化は起きないわけで、その上で、

じゃあそれを「10年スパンでもスムーズに考えられる人」「日々どうしていくかという単位じゃないとぐちゃぐちゃになる人」がいるはずで、

僕も含めて多くの場合は後者であるはず。

もっと言えば、1日単位ですら時間軸の区切り方としては微妙で、もっと細かく「3時間ごとに何をする」とか、いちいち考えたほうがいい場合もあるでしょうし、

時間に限らず1日の過ごし方についても、「仕事する、趣味の時間、食事の時間」とかに分けて考えて十分な人もいれば、

「趣味の中でも特にこれとこれとこれがあって、これについては今日はこれをやって、こっちは明日これをやろう」まで考えてやっと整理がついて気持ちよく過ごせる人もいるはずですよね。

だから自分にとって最適な、自分だけではなく、その対象も含めて、その両方にとって一番ちょうどいいサイズにまで分割して捉える、そしてそれを言葉にできるところまで意識に挙げておく、ということが大事になってくる。

逆に言うと、適切じゃないサイズで考えてるうちは、ずっとなんとなくとか運とか気分に左右されることになる。

でもそれがダメというわけではなく、

結局は「望んでることが何か」、という話で、運とか気分をあらかじめ組み込んでおく場面も当然ある。

それは決まりきったことだけやってる生活がつまらないのだとすれば、「1日の中の」「ひと月の中の」「ある活動の中の」、「この領域だけは運任せに動いていく」ということもあるかもしれない、

でもその場合でも、運や気分に任せる場面をあらかじめ決めている。

だから、人生全体、人格全体を細かく見ていく中で、「この一つの領域においては、運に任せる」という形で、

これまで見てきたことと同じように、「自分の言語や意識で捉えられるサイズ」まで細かく分けている。

意識を向けるだけで力が出やすい

そうやって、適切なパーツに分けて部分ごとに着目する。

今はこの筋肉を動かしてる、とかを練習の時には言語化しておく。

すると、力が出やすい。

「なんかひりひりするなと思って指を見たら切り傷があることに気づき、その瞬間痛く感じてくる」、みたいな感じですw

「部分」に注意を向けたからその「部分」が意識に上がってくる。

むしろそうやって意識に挙げるために部分ごとに言語で捉えてるのだと思いますが。

阪神の近本が自分のフォームのチェック項目を全部口に出しながらゆっくりスイングしてるのがまた違う動画ですがあるんですね。

「地面に対してスッと立つ」「前腕二頭筋がなんとか~」という具合に。

それは各パーツに対して、「今お前に意識を向けてるぞ」というサインを送ってるわけですね。

それで意識が向いたことになり、力が発揮される。

ポージングとかじゃなく、親指を握るとか手首を触るとか腰を叩くとかそんな動作一つ入れるだけで、身体がそこを認識して力の入り具合が変わる。

つまり、言葉の扱い方で、自分が今何に注目してるかを自覚してることになり、それが直接身体の反応に現れるってことです。

高木豊は現代の解析に頼らず適切な体の使い方に気づいていた

科学とそうじゃないもの、の話にも繋がってくるんですが、高木豊のようにその分野で一流クラスの人は、解析しなくても感覚で一番いいところに収まってくる。

自分が気持ちよく無理なく負担のないフォームを探していくと、自然とそこに収まってる。

成績残す人は自分の体に敏感で繊細

気持ちいい気持ちよくない感じ取るセンサーが優れていたから、専門家に解析してもらわなくても、そこに近い体の使い方を探すことができた。

何前回とスイングしまくる中で脱力状態でも振れるポイントが見つかり、それが数十年後に解析してみたら個人の体のメカニズムから導き出される理想的な体の使い方だったというわけです。

ってなると、科学を絶対視しがちですが科学だから正解なのではなく、

もっと抽象度の高いところにいろいろ情報があって、その中で科学というツールを使うことで、一定のところまでなら個人差なく誰でも階段上れますよってことですよね。

それが科学の言う再現性です。

今だったら基本的には誰でもその解析で理想の体の使い方は分かるわけです。

高木豊の時代はそういった理論が整ってなかったから、自分の体の感覚に繊細な人がそこに気づけたということなんだと思います。

だから可能性の問題として、繊細に感じ取れる人であれば科学というツールに頼らなくても自分で見つけていけるわけですよね。

人間の感覚だけでも科学と同じやそれ以上まで行けることを知っておく

で、それをもう少し推し進めてみると、今は科学で捉えられている世界が自分たちの世界という認識になってますが、

これに関してもセンサーが鋭すぎる人は、今の科学でキャッチできてない世界に気づいているんだろうってことが言えますよね。

訓練できるのかは知らないが、科学で証明されてないから偽物である、ということではなく、

感覚で捉えられない人のために言語化して形にして誰でもわかる形で提示してくれてるのが科学であって、

でもその科学でまだ明らかに出来てない世界、そんな場所にあるものを感じ取れる人がいて、その人はそのセンサーでキャッチしたものに従ってふるまっている。

高木豊が自然と自分に合ったフォームを感覚だけで作り上げたように。

こうなると、科学で分かってしまうせいで感覚を使わないことが問題になってくるのだと思います。

今は科学で自分の適切なフォームが分かるのでそれはそれで大きいですが、いきなり答えをもらうわけで感覚を通して修正するプロセスの経験は昔よりは少ないはずです。

そうなると、正しいフォームは分かるが、それが崩れたときに自力で修正するのが難しくなってきそうですよね。

野球のことは分かりませんが、日常生活で言えば、「科学的に○○したほうがいい」という主張があったとして、それを取り入れたとして、

途中でそれによるマイナスの影響が出てきたときに、自分の感覚で気持ちいところに収まりに行くのが難しくなるってことです。

だからまた別の「科学的には~」を探して取り入れてしまい、一生ちょうどいいところが分からず、爽やかに過ごせない、ということになってくる。

真面目とか不真面目の記事で、ちょうど中間の気持ちいいところを探していく、という話をしてたんですが、それが分からないってことになります。

新作の電子書籍『戦略的不真面目の実践』が発売されました。

やりたいことが分からないとか熱中するものがないとかも全部ここに関係してると思っていて、「自分にとってのいい状態はこういうものだ」、というのを自分で感じ取れない。

人間の感覚だけでも十分に科学と同じところ、場合によってはそれ以上のところまで到達できるって頭に入れておいて、

日々ちゃんとその感覚や気分に気を配り意思決定していくことのが第一歩なんだと思います。

「感覚を磨く」とは「○○したい感じ」を増やすこと

「理屈ではなく感覚に従う」ことが「脳ではなく腸に従う」と言える理由

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