考えることについて考え、書くことについて書く事は目的ではない。
前に「本業は講師である」という言い方に違和感があるという話をした。
これは、人に何か伝える行為は、その伝えたいことが出てくる別の活動があり、それが溜まってきたから外に掃き出されるもので、
伝えることがメインとしては成り立たない、というか伝えるために用意された伝えることは面白くないという話。
なんというか循環論法的。外に広がっていく感じがない。
というのと同じで、考えるのも書くのも表現するのも手段であり道具であるので、そこにずっと留まってる場合ではない。
それは用具をメンテナンスするかのように、その働きの不具合や調子の悪さを感じたときに点検すればいいのであって、または日常的にいくらかの時間を確保していればいいのであって、
ずっとそれだけをやる、という動き方は成り立たない。
人生についても同様で、人生の方向やら軸やら考えるのはそんなタイミングだからであって、そこをガチガチに構築することが目的ではない。
自分の人生を生きていくのがメインであって、それについて考えることはそのうちのごくわずか。
もっと言えば、動き始めることで考えが進むこともあり、その場にとどまって道具のことに時間を使ってる場合ではない。
草を刈って畝を建てて野菜を育てたいのであって、草刈り機のサイズやデザインにこだわってる場合ではない。
うまく働かないときに修理すればいいのであって、万全な時から壊れたときのこと考えたり、苗を植えるときに機械に思いをはせている場合ではない。
ましてや道具の扱いだけがうまくなっても仕方がない。
それは職人の仕事であり、その職人ですら一日中道具を触ってるわけではない。
もちろん普段考えることが多いとその技法に関心が向くのは当然で、自然とそれ自体について考えるものではあるが、忘れないようにしたいのは、考えるのがうまくなりたいわけではないということ。
考えたその結果をもとにどう振舞っていくのか、今日何をしたのか。

