感覚・感性を磨く

最近「分かち合い」が非常に大事な気がしているという話

こんにちは、高本です。

あっという間に今年が終了しそうですが、いかがお過ごしでしょうか。

今日は「分かち合い」について少し話してみたいと思います。

僕は去年の年末は修士論文で死にかけてたのですが、今年は電子書籍を作っております。

テーマは人生の軸を見つけるという話で、ブログでこれまで中心的だった話題です。やっぱり原点はここを自覚できているかだと思うのです。

何を求めてどの方角を進んでるか分かってるから、日常のイベントを余計なこと考えず正面から味わえるわけです。

で、そんなものをどうやって考えていくか、という話をブログではしてきました。

でも本当はその先からがめちゃくちゃおもろいパートだと思っていて。

最近は、ここでもいくつかレポートを配信しているように、その辺りの話に移りつつあります。

人生の中心的なテーマやエネルギーの源泉を突き止めたうえで、どんな風に追求・探求していくか、という文脈です。

自分が情熱を注げる、無限にエネルギーが湧いてくることを軸に据えての物語となります。

面白そうなところに飛び込みつつ、気になったことは調べまくりつつ生きていくわけですね。

で、その過程で溜まっていくエネルギー(具体的には知識、経験、情報、感情、人間関係、お金などなど)はどんどん循環させていこうという話も何度かしてきました。

そんなエネルギーのやり取りが展開されていく場として、情報発信のメディアについても考えてきました。

で、僕は最近「分かち合い」というのが、何かちょっと真理めいたものに感じてるんですね。

悟った後は山から下りてみんなで遊ぼう

エネルギーを循環させるというのは、どちらかといえば送り出してからまた戻ってくるまでの、「自分の手を離れたエネルギーが人を媒介に伝わっていく部分」に焦点が当たっています。

分かち合いの方は、もうちょっと手前の自分たちがまず出す、「分かつ」というところが強調されてる感覚なんですね。

で、これが非常に大事だと。

与えるところに外部との接点が生じるわけです。

この話も以前したことある気がしますが、結局探求だけしてるのも面白くないのです。それはゴリゴリの数学者とか芸術家の域です。

例えば、釈迦ですら自分が悟った後はまわりにそれを伝えていったわけです。

これが大乗ですよね。

小乗仏教は自分が悟ることだけをずっと求めていきます。

でもじゃあ悟ったからなんやねんという話なわけですよねw

悟ったことによる変化とか、そこまでの道のりも含めて、

「全部まわりと遊べた方が面白いやん」

って思います。

ここでの悟りは、僕たちが何か探求していく過程にある、中継地点みたいなものです。

一人で山に籠って好きなことをガンガンやっていくんですけど、部分的な悟りがあれば山降りてきてみんなでそれで遊ぼうやってことなんですね。

みんなに面白がってもらって役立ててもらった方がいいやんということなんですね。

もっと言えば、何かそういう発見があれば、基本的には人に聞いてもらいたいはずなんですね。

という話をしていきたかったのですが、思いのほか分量が多くなりそうなので、この分かち合いについては、年内最後のレポートとして配信しようと思います。

とりあえず本が完成してからになるとは思いますが、これはなかなか面白いし重要なテーマなのでちょっとまた考えていきましょう。

それでは!