小林秀雄の、批評に関する哲学が気になる。
『様々なる意匠』というデビュー作で、その批評に対しての考えを書いているらしい。
そこで思ったのが、一番最初からいわゆる「批評というものをする人」として進んでいこうとしていたのかってこと。
批評といっても、誰ともわからない人が何らかの作品について書いたところで通常は興味を持たれないような気がするが、素人の時からそれをやる人としての意識があったのか、
つまり、小林秀雄はどういう流れで小林秀雄を確立していったのか。
*
そういえば、小林秀雄と岡潔の対談を最初に見たときは岡潔の方に興味を持ったところが始まりだった。
でも最近改めて読み返した時に小林秀雄の方に関心が移行している。
それは、批評ってただ作品についてコメントしてるだけのように感じていたが、『ドストエフスキィの生活』という本をたまたま見つけて、
というのも、地元の図書館で古くなった本を市民に配布するというので行ってみたら、たまたま見つけて面白そうだったのでもらってきた。
それを見てみたり、本居宣長の評論は雑誌の連載で10年以上やっていたということを知ると、もちろんではあるがさっと作品一つ二つ見てそれについて書くというわけではなくて、
そこにはその対象とどう接していくか、またそれをどう表現していくかという、一つの哲学があるように感じた。
*
この小林秀雄の批評についての哲学を読み解いていくことで、別に批評家になるつもりはないが、世界とどのように触れあっていくかという、その「接地面の上での振る舞い」がもう一つ洗練され、より面白がれるのではないか。
つまり、何かと触れたときに、どういう言い方がいいか分からないが、その二つの時間軸が交差するところに最初の出会いがあるとして、それを一点として捉えると互いに通過して何事もなく次のイベントに進むわけですが、
その一点を拡大して高い解像度で捉えられるようになると、その0次元の点が3次元の立体のように感じられ、一瞬で通過する点ではなく、広がりのある空間となり、より深いところで、その対象との交流が起こってくるかもしれない。
この「点から立体に拡大する引き延ばし力」としての「批評」という感覚、こういう風に捉えておくのがいいのだと思う。
極端な話、そういうものがあるか分からないが、「批評的精神」でもって世界と触れるとするならば、普段の生活の中で、それまでは素通りしていたところに新たな引っ掛かりが生まれてくるかもしれない。
▶経験や情報の落としどころが見つかれば人生から退屈がなくなるという話
暇つぶしのバラエティ番組や、作業BGMやただの雑談の中から何かをかすめ取るそのセンサーの一つとして「批評的感覚」というのがもしかしたらあるかもしれない。