コラム(?)

経験の意味付けを行う価値観を強制的に塗り替える衝撃の発生源としての他者の話

柄谷行人の「探求Ⅰ」という本をさわり程度に見た。

この本では「他者」というのがここではおそらく超重要ワードで、あとがきの後ろの解説を見ただけだがざっと掴んだ感じでは、

他者とは「自分と言語ゲームを共有しないもの」であり、自分と共通の言語を持つものは他社ではなく共同体の内部であり、その外にいるのが他者であるという話をしている。

僕は他者とのかかわりは重要だと考えていて、と言っても人は基本的にそうなのだと思うが僕がそう思う理由としては、

雑談というか自分の外からの刺激になるからで、それは経験に対して全く新たな意味付けができる可能性のある機会だから。

外からの衝撃による半ば強制的な価値観の上書き

というのは、経験に対する意味付けはすでに自分の中にある概念や価値観によってしか行われなくて、

例えば毎日文章を書くという運動がありそれをある人物が重要視していたとして、それはそいつがそれまで生きてきた文脈とその中で獲得してきた考えや価値観による判断もしくは評価で、

今その書くという経験をそのように評価していること自体は問題はないが、そのままではその評価は更新されることなく、

逆にその行為を評価した価値観の側にも変更がなければあらゆる経験や行為はその同じ価値観によって評価されることになり、

つまり異なる経験をしてもそれに対する意味付けを行う基準に変化がない限りその解釈は変わらない。

そして変わらないということはそいつは同じ場所にいて動いていないのと同じである、どんな経験もある一つの価値観による評価空間に押し込められその外に出ることはできない。

ここでの価値観の変化は完全に主体的に起こすことは難しい。

それは外からの衝撃的な体験によって半ば強制的に入れ込まれる。

これは例えば、自分探しにインドに行こうとする人が期待するような体験のことである、インドに行くのがいいとは全く思わないけども。

この価値観や評価軸の更新が起こるとそれ以降の経験はもちろんそれまでの経験の評価も塗り替えられる可能性がある、

というかそれまでの価値観による意味付けや解釈と新たな価値観による評価のアウフヘーベンによって一つ上の階層に抜けていくことができる。

むしろそれによってしか今いる系の外に出ることはできない。

自分と言語ゲームを共有しない他者

で、今回言いたかったことはこれではなく、他者、というものについてで、じゃあ自分と言語ゲームを共有しないとはどういうことかについてもう少し考えてみる、

これは今あとがきにちょろっと書いていたことでしかないが、おそらく自分と共通言語があるかということで、だから、直前の話と関連付けて言うと、

というかなぜ経験とか意味の話が出てきたのかと言うと、そうやって外からの刺激として価値観の更新を行うきっかけの一つとして他者の存在は間違いなくあり、

流れに身を任せてフッ軽で巻き込まれていくのが楽しいよという話【宮古島旅行記①】

それはちょっとした雑談ですら、自分の思考の外にある言葉が出てきたりするものである、

で、だからそういう意味で他者の存在は重要なのだが、じゃあその他者ってどういうものか、という意味で「自分と言語ゲームを共有しない」という感覚が面白い。

これはつまり、普段よく話をする人を他者として考えてしまいがちだが、この文脈ではそいつは他者ではない、

よく話をするのだからその両者の間での共通の理解や共通の言語があるはずで、こうなると「自分たち」という形で同じ共同体に属することになる。

だからここでの他者というのはその共同体の外にある存在で、こことの関わりが起こってくる必要がある。

で、そこでそのときに「教える―教えられる」のような関係について話がされていて、この他者についてや、そこでのコミュニケーションについてはこの本でよく語られているのだろうがまだ途中までというかあとがきしか読んでないのでここまでにしておくとして、

この他者としてインターネット上の、情報空間での場合を考えてみたい。

インターネット空間における他者

例えば、ブログとそこに訪れる人に注目してみると、最初のそのページを訪れていこう何度かそのブログを見るような人は今回の話で言えば他者ではなく共同体の一員という見方になる。

恐らく一番最初に来たタイミングだけが他者で、それ以降いくつかの記事を見ながら書き手の言葉遣いやその定義などに慣れ親しむようになる中でこの本的には共同体ということになるのだろう。

もっと言えば書き手の側もよく使う言葉や概念のそのサイトにおける意味合いを毎回説明するわけにはいかないので当然読者もある程度分かってるものとして使用する。

場合によってはリンクでつないで言葉の意味を補うことはあるにしてもそれらを知ってる人が多数派だと思って書く。

だからここで他者との遭遇はあまり起こらないはずで、このブログとかの話で言えば、共同体の外との遭遇が起こるのは note の方だと考えられる。

というかnoteは共同体の外との遭遇の起こる場所だと考えると面白そうである。

と思ったが、別にnoteでも自分が知ってる言葉で検索するか、すでに知ってる概念に関する記事の関連で出てきたものを見るわけで、結局それは偽の他者ということになる。

なんかめっちゃ中途半端だが、続きはまたもう少し読んでから考えよう。


探究(1) (講談社学術文庫 1015)