「作家は行動する」をしばらく読んでいたが、おもろそうな話はしているが内容がむずすぎてよく分からない。
ポイントは「時間を作り出す」ということで、時間を時計が計測する客観的なものとみるか、行為する人による主体的なものとみるか。
で、後者であるべきと著者は考えていて、例えば文学作品で言えばその作品としての静的な塊がどうとかではなく、作家がそれを書く中で過ごした時間の流れ、そこに参加することがその作品を受け取るということで、
逆に作家はそんな時間を作り出していく必要がある、もしくはそんな時間を作り出していくものである、というニュアンスで、
たぶんいくつかの方向に広がるようなすごく面白い話なのだが結局何を良しとしたいのかよくわかっていない、
なのでこれがどの方向に広がりそうと感じているのかを書いておく。
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文学や文体系の話は大体ベンヤミンと吉本隆明に絡めて議論できると思っていて、というかその方向に掘り下げる中の一つとしてこの本も位置付けているので自然とそうなるが、じゃあこのベンヤミンとか吉本隆明の話は何か。
これは僕の現時点での解釈としては、文章を書くとか扱うにあたって二つの立場があり、
それはベンヤミンがいうには精神的本質の「言語による伝達」と「言語の形での伝達」で、吉本隆明が言うには「指示表出」と「自己表出」で、この本的には「外在化された時間」と「主体的な時間」という構図。
基本的には後者であることに面白そうな雰囲気を感じていて、「文章を書くとか扱うにあたって」と書いたが、この3人の言い回しを見てみると、全員、
「自己」とか「精神的本質」とか「行動」とか「主体」とか結局自分自身というところに関わってくる。
言葉を技術としてどう表現しどう伝えるとかではなく、そいつの本体的なものが含まれたものとしての言葉、
といってもこれも「言葉には自分らしさが出てくるものですよね」「そういう表現じゃないものはつまらないですよね」みたいなことではなくて、
「言葉それ自体がお前そのものやで」みたいなそういう感覚。
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そもそも人がものを認識するときには、頭の中では言語を使って捉えているわけで、だからその時の語句と文法のセットとしての「論理」これを常に注意していくことになる。
▶「ものを認識する論理、それ自体について考えておこう」という感覚がめっちゃ面白い話
何かをうまくとらえられない、上手く取り組めないという時、それはその対象が複雑で今の自分の中にある論理では対応できないということ、
イメージとしてはx軸とy軸の二次元平面を採用してるやつが、宙に浮いたものを捕まえようとして失敗してる状態、
この時にやるべきはその論理を更新しz軸方向を付け加えて三次元空間というパラダイムに上書きすること。それが勉強することであり動く事であり、つまり常に今いる箱の外に出ようとすること。
じゃあ今どんな箱にいるのかと言うと、それは普段の”運動”から分かることで、例えば興味のままに片っ端から本を読む中で今の関心やその数週間から数年の守備範囲、自分の体系が見えてきたり、
それは毎日書く事も同じかもしれないが、それによってそれによって今縛り付けられている場所に気づくことができる。
そしてこの外にはその延長の動きでは基本的にはでることはできなくて、
それはいくら毎日本を読むとしてもすでに知っていることを強固にしたり、感覚で何となく結論は浮かんでいるものの間を埋めることにしかならない。
例えば「○○が大事」とか「○○という感覚が好き」というのがあった上で、その理屈をより秩序だったものにしていく素材が見つかるだけで、
と言ってももちろんその間を埋めていく時間も本当は必要でそれがないのはただなんとなく「こういうのがいい」と思ってるだけのやつで、そこには何の根拠も背景も深みも重みもない。
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でもいくらそこを突き詰めてもそれはすでに自分の領域になっている範疇でしかなく、この外に出るためには外部からの刺激が必要で、
自分から掴みに行くというよりもむしろ強制的にそう思わされてしまうようなそう考えさせられてしまうような体験をせざるを得ない、
それは人によってはエジプトに行ったことかもしれないし、誰かと話をしたことかもしれないし、楽器を始めたことかもしれない。
それによって情報空間とか思考とか精神として今ある領域、その本島からは見えていなかった離れ小島や無人島の存在に気づく、そこで始めて一人で物を考え本を読み勉強することが意味を持つ、
それは両者の間に橋をかけることであり、こうしてその離島はまたそいつの領土となる。
これがz軸を追加し新たなパラダイムを受け入れ論理を更新した瞬間である。
そしてその様子を示しそこに人が参加できるようにすることが文章を書くことで、その段階になってもう一度、ベンヤミンや吉本隆明の言葉に対する感覚に戻ってくる。
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この開拓から整備まで、または一連の運動をいかに表現するかを考えるとき「言語の形での伝達」や「自己表出」が大きな存在となり、
また、江藤淳は「作家は時間を作り出す」という言い方で、動いて離島を見つけ橋をかけるこの主体的な時間(時計の時間や締め切りや起源に動かされていない時間)、ここに読者が参加していくイメージを表現した。
それは水泳選手が腕を動かし水を掴みながら進んでいくのを見る観客と、その結果をニュースとして知るときの時間の感覚が異なるように、
その表現や文体は「作り出された時間」の現れであるのが望ましい。
という意味でこの「作家は行動する」はすごく面白そうな感じがしているが、中身はよくわかっていない。