コラム(?)

子供のこだわりに「そこはどっちでもいいやん」という大人はそこに違いを感じる繊細さがないだけなのではという話

何か月か前に子供達数十人とキャンプをするイベントのスタッフをやってみたときの話なんですが、

もっと面白い世界にしていくと考えたときに、大人が子供とどう接するかはめっちゃ大事だと改めて感じたのです。

それは教育に限らず普段どう接するのか、例えばイラストが描かれたメモ帳をちぎってシール貼ってくれたり、似顔絵を書いてくれたりしたが、

そういう日常の一コマでもちょっとこっちが無意識でネガティブな反応や言い方をしてしまうと、それで絵を書くのに抵抗が生まれてしまったりするわけで、

直接「上手じゃない」という言い方をすることはもちろんなくても、関心を持たないとか、

とにかく「絵を描くこととマイナスの感情がセットになるような言動」というのは不意にやってしまうことはあり得る。

でもその一言がなければどんどん絵にのめり込んで、別に画家にはならなくても人生における一つの楽しみとして絵を描くことがある、という過ごし方をできるかもしれない、

逆に言えばこっちの態度一つでその未来をなくしてしまうかもしれないわけで、大げさかもしれないけどでも本当にそうで、

子供のとがった好奇心に触れると、それをなくさないまま行ってほしいなと思ったりするわけです。

例えば、恐竜好きな子は白亜紀がなんとかで~ってめっちゃ喋ってたり、女の子だったら花の名前とかめっちゃ詳しい子もいたりして、

そういう誰に言われるでもなく勝手に面白がってることをぶらさずそのまま突き進んでほしいなと。

子供のこだわりは感度の高さ

あとはもう一つ思うのは、低学年の子ってめっちゃこだわり強いというか、

大人からすれば、「そこは今は一旦いいやん」って思うような、何でもいいけど例えば、「席の場所が右か左か」とか「それ片づけるの一旦置いといて今はこっちやろう」とか、

大人ならどっちでもいいかって場面で絶対に譲らないというのがあって、

それを最初は客観的に「めっちゃこだわるやん」とか「どっちでもよすぎてなんて声かけよう」と思ってたが、途中で、

「大人がどっちでもいって思うのって、シンプルに感度が弱くなってるだけなのでは?」と思い始めた。

AかBかに大きな違いを感じるからそこにこだわろうとするわけで、どうでもいいってことはそこに段差がなくて違いを感じる繊細さがない。

こだわりを手放すのって「大人の余裕」とか「落ち着き」とかじゃなくて、見方を変えれば

「どっちも同じにしか思えないぐらい感度が鈍ってる」

ともいえる。

わがままなのではなくて感受性が豊かってこと、

面白い面白くないやりたいやりたくないがはっきりあるのは素晴らしいことなのです!

「感覚を磨く」とは「○○したい感じ」を増やすこと