コラム(?)

自分の方法を作るとはどういうことか

自分が欲しい情報はまとまった形では存在しない。

まず個人が何かを知りたい解決したいと思い探すとき、その情報はその個人が欲した流れや文脈があります。

だから本でもサイトでも動画でもですが、そこに関係しそうなものを見つけたとき、でもそこにあるのは、その著者や制作者の編集が入ってます。

だから作り手の目線から編集されたもの。

もちろん受け手を考えて作る部分があって、その意味では「受け手の目線になりなさい」という言われ方はしますが、それはここでの話とはまた別の問題で、

というかそこでいくら受け手の目線と言っても、それはどこまで行っても「作り手から見た受け手の目線」です。

で、その解像度が高いほど、こういうのが知りたかった欲しかったと、満足して受け取ってもらえる。

でもそれほどに今自分が欲している文脈でその目線で書かれたものはほとんど見つからない。

自分の処方箋を自力で探し集めていく

だから自分で大量の情報を摂取ながら、今欲しているものを満たしていくわけですよね。

そうすると、その求めていた情報群の輪郭が浮き上がってきます。

つまり、今抱えていた問題が解決したり痛みが和らいだりしながら、そのためにはどんな情報が必要だったのか、またその上でそれらをどう自分の問題に当てはめたのか、ということが、後になって結果として分かってくる。

そこにその人の、その問題への向き合い方の体系が立ち上がってくる。

ノウハウというのは本来そういうものです。

その人の個人的な問題を解消するために考えて取り組んできたことが、一つの塊として理解できるようになっていく。

で、最初の話に戻れば、じゃあこのとき最終的に積みあがっていくノウハウのようなものは、何処かの本やネットに落ちてるのかと言えば、その確率は極めて低い。

その問題をその角度から考えようとしたのがそいつしかいないから。

厳密にはゼロではないが、基本的にはごくわずか。

でももしそんなものを見つけたときは、「これは自分のために作られたものだ」という感動になる。

これは当然で、その人の超個人的な問題をちょうどそれと同じような角度からまとめられていて、でもそれは情報の客観性や網羅性ではなく、いわばその人に特化したような状態です。

作り手が意識したかどうかは別として。

でも受け手からすれば自分が欲していた角度や文脈から議論されていることに気づき、「ちょうど欲しかったものがここにあった」ということになる。

で、これが、個人が自分の取り組みを発信する理由になります。

やりたいことが分からない時のアプローチが方法と呼ばれるまでになる流れ

ここからもう少し具体的な話をしてみると、例えば、ブログではやりたいことが分からない時のアプローチとしていくつかの話をしてたりします。

で、やりたいことが分からないときにどうすればいいか、というのは検索したり本を探せばそんな話をしてるのはいくらでもあります。

でもそこには、本人が欲しい文脈というのが存在しています。

つまり、「そういう話は求めてない」とか、「それは違うねんな」とか、はっきり何かわからなくても、なんか違う、というのを感じはします。

それがその人の知りたい文脈に直結してます。

このブログの記事だと「副教科から攻める」みたいなのがあって、それは一つの具体的な方法としてありますが、

やりたいことが分からないときは、ひとまず副教科から攻めていくのも効果的だという話

じゃあなんでやりたいことが分からないということを解決したいのか、またはなぜそういうアプローチをするのか、というのはいろんな可能性があるわけですね。

そこにうまくハマる感じがないと、その方法それ自体が客観的にはいいアプローチだったとしても、受け手には入ってきません。前提や文脈が違うから。

で、もう一つ進めると、まずこれは僕の方法ということになります。

というか、そもそもじゃあどういう位置づけとしてこのアイデアを共有してるかと言うと、

このブログで言えば、最後は「人生ちゃんと遊ぶ」というのがあるわけですね。

ちゃんと遊ぶことが人生においていかに大切であるかという話

つまり、「やりたいことがなければ適当にいろいろやってみればいいやん」ということではなくて、

それ以降も、「自分が進みたい方向に進めている感覚と共に、今日一日をちゃんと面白いものとして過ごしていく」というのがざっくり言えばあります。

そうなると、「やりたいことが一つ出てきて嬉しいですね」ではなく、「物事を面白がる」とかから考えていきたいということになってきます。

それは感覚を磨くとか遊び心が~とか言ったりしてますが、これがここでの文脈です。

この辺の話と何か自分の中にあるものが近い気がするから、「その方法は今必要なものなのかもしれない」と思ったりします。

で、これは僕が過去にこの辺りの問題をそういう形で解決しようとしてきた、というわけです。

つまり、僕は僕でやりたいことが分からないときにどうすればいいかと思って、色々見ていく中で、「自分が欲しいものが全然ない」となりました。

それは検索上位の記事は大手メディアが適当に書いてるだけなので、全然参考になりません。

大手メディアで紹介される方法では不十分な理由

で、ちょっと話が変わりますが、ここで、じゃあなんでそういう記事が面白くないのかと言えば、一般化しすぎてるからです。

ここまで見てきたように、前提や文脈が共有されてるから、そこに近いものを感じてその情報が自分に必要なものだと判断されます。

だから高度に一般化された話にはそういう流れやにおいや気配が一ミリも含まれてません。

それには個人の歴史を語るしかありません。

そこにその人の問題意識や考えてきた文脈があって、そこに共感するから、つまり自分も同じような方向性だと思えるからそれに価値があるように感じます。

価値と言うとあれですが、シンプルにその先も知りたいと思うわけです。

でも大手メディアの記事ではそれは出来ません。

それは当然で、何処かのライターが書いてるわけですが、でもその人の個人的な人生の流れと、そのメディアで表現したい文脈が完全一致はしないからです。

そもそもこの場合のメディアは複数の個人の集合として成立していて、コンセプトという形で一貫性を作ることはできても、

その問題を深く考えてきた人間の目から見れば、書かれてない話が多すぎるわけですね。

物差しで言えばメモリが少なすぎます。

もちろんそれにはそれの良さがあって、初めはそういうので漠然と全体を見渡せるのでありがたいです。

ただ、根源から向き合っていく上では、途中で物足りなくなるのは必然です。

そこで自力でほかの情報を探すことになります。

自分の方法とは、その問題の解決のために右往左往してきた歴史の全てである

いろんな媒体を通して探しに行くわけですが、そこでようやく自分に近いニュアンスで同じように考えてきた人の存在に気づきます。

その時にその人に親近感を覚えてその人の話をもう少し聞いてみようと思います。

同じような方向で角度でそれを考えてきているからです。

でもそれでも完全に同じということにはならないので、その人の考え方ややり方では、自分の道徳や倫理や正義や悪と衝突する部分が出てきます。

そこでまた他の人や情報を探しに行くわけです。

それを繰り返してその問題が解消されたとき、そこまでの道のりがその個人の手法ということになります。

その問題をその角度からその方向にそのわき道を通りながらゴール(または中継地点)にたどり着いたのはその人だけです。

すると次はそのアプローチが一つの解決法ということになります。

こうしてみていくと、その人が欲する情報やコンテンツがそのままどこかに落ちてるわけがないことが分かります。

世の中にあるのはすべて「それを作った人から見たその問題の解釈と解消の方法」です。

だからなるべく多く自分に関係ありそうなそれらを集めてきて片っ端から試していき当然自分でも考えていき、やっと自分にとっての解が出ることになります。

で、その過程が自分の道を進んでいくということです。

つまり、極めて個人的な問題や困難の解消を進めていくことのすべてが自分の方法を作るということです。

逆に言えば、方法を伝えるにはその道のりをすべて喋るしかありません。

その道を通ってきたことがもう方法の始まりです。

それが個人がものを語る理由になります。

それが読みたいことを書く、欲しいものを作るということです。

準備をやめて思い付いた瞬間に今あるもので小さな完成品を作っていくと気分がいいという話

試したこと考えたこと摂取したものを話せばそれはすべて方法です。

そこには科学的根拠は必要ありません。

個人の文脈に客観は存在しません。

科学的根拠をベースにその行動をしてる場合は、「科学的根拠をもとに動きたいという思想の人間による行動」という方法です。

だから個人の方法には科学はあってもなくてもよくて、個人の問題が解決されることがその個人にとっては最重要です。

科学的に解決できるならすればよくて、でも科学でなくてもよくて、むしろ「一段落ついた時点で、結局何が問題を解決したのか」という結果論として判明するぐらいでいいわけです。

人によっては宗教が効果的だったということもあるでしょう。

ここでの宗教は別にキリスト教やらイスラム教やらでなくても、

科学的にどうかは分からないが、こんな思想でうまくいった解消したという、行動指針や自分のルールの可能性もあるわけですよね。

とにかく自分のためにやったことは全部方法であって、逆に言えばそういう形でしか自分を助ける方法には出会わない。

つまり、検索して一ページに見たサイトや最初に手に取った本にそれが書かれてることはないわけです。

更に情報発信で言えば、そうやって自分を助けるに至った考え方や方法や実践の過程がそのメディア空間で価値を持つことになります。

それを発信することが自分の場を作るということで、「自分が持ってるものが価値となる場を構築していく」ということなのです。

【価値=電荷仮説】情報発信とは自分にとっての電場を構築することである

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