ヒガンバナに学ぶ「自然の余裕」
『自然学の提唱』という本の中で、ヒガンバナに関する記述がある。
ヒガンバナは花は咲くが実はならない。つまり、昆虫に受粉を助けてもらう必要がない。
じゃあなぜ蜜があるのか。
ダーウィンの進化論を信じる立場からはこういう問いが出てきます。
彼らの論理だと、自然淘汰から考えて、「花蜜のある個体が生き残りに優位だったから」ということになります。
でもこの自然観はスケールちっさすぎやろってことなんですね。
それがこの本の著者、今西錦司の「自然学」の根本的な考え方です。
別にそんな狭いところでメリットとか理由とか考えなくても、「ただ余裕があるだけ」って言ってるんですね。
自然は余裕に満ちみちていて、だからその過剰のエネルギーでアゲハ蝶にとっての好物を提供してあげてるのだと。
そうやって見たときに、植物はもう「食われ放題」です、昆虫やら動物やらに。
その余裕で彼らを養ってあげてるのだと。
で、僕は全部これでいいと思ってるんですね。
「食われ放題」の哲学
このブログで「エネルギーの源泉」とか言ってるのも同じで、自分にとって余裕ある部分、過剰にエネルギーがある部分は、自由に食べさせてやったらいいわけです。
食われ放題、やられ放題でいいのですw
ブログ記事一つ書いて100円だの200円だの言うのは、それは動物同士の競争の論理であって、僕たち「大自然チーム」は食いたいやつに好きなだけ食べさせて養ってあげればいい。
別にある一角が食べられたとて、また来週には草ボーボーになってますので問題ありません。
なんか聞いたところによると、きゅうりは一回でき始めると無限に湧いてくるらしいんですね。一人だと毎日がっつり食べても余るぐらい。
これも自然の余裕です。
一口味見してもいいけど二口目からは有料です、とか言ってくるきゅうりはいませんよねw
逆に言えば、「食われ放題にできないことは一人でやっとけ」って話でもあります。
別に無理に人前に出てくることもない。
そんなところでケチるぐらいなら一人で大事に大事に味わっといてください、ということなのです。
むしろ、一人では抱えきれないぐらいにあふれてるから、「ご自由にお持ちください」なわけで、それに気づくほうが先ですよね。「大自然化計画」です。
動物の論理だけに生きてると窮屈になってきます。
「頭」ではなく「腸」で選ぶから自由になる
そもそも、この「動物同士だったら~」という、「部分に分けて捉える発想」が西洋的で科学的で、頭でっかちというやつです。
この本の後半でも、「好き嫌いに従うことが自由の始まりである」という話が出てきます。
「ある情況のもとで、どちらか一方をとらねばならなくなったとき、私は頭で考えたり、理性の判断を待ったりしないで、からだ全体の要求するところに従うのだが、その行為を表現するのに、ここでは好きな方を選ぶ、といってみたにすぎない」
これは極端な言い方をすれば、脳ではなく腸で選ぶという感覚ですよね、「肚落ちする」と言うときの決断の仕方です。
頭で考えて理性でメリット・デメリット考慮して判断するんじゃなくて、それぞれ選んだと想像した時の体感で決めるってことです。
頭で考えるということは、逆に言えば「頭で整理できる範囲」しか見てないわけです。
でも人間の脳はもっと処理能力が高いので、自分の意識の外にも感じ取れる部分があって、そっち側も含めて全体で感じる決める。
それが「好きなことに従う」というものです。
そうやってると、ノンストレスなうえにその時々でいろんな学びや体験があるので、物理的な消耗は別として、消費エネルギーに対して獲得エネルギーの方が多くなりますね。
食われ放題が可能になります。
本来、情報発信もそういうものなのです。
頭でなく腸で選ぶのも、自己実現と他者貢献を一致させるのも、人生と日常を統合するのも、すべて同じことなのです。
▼「食われ放題」の感覚についてもう少し

▼これらを前提とした情報発信のコンセプトの考え方について
