感覚・感性を磨く

なぜ農業や畑なのかという話

何か月か前から畑の話をしたりしてるんですが、

一週間でネギが伸びていた

なぜ急にそんなことになったのか書いてみよう。

昔からの興味と自然のつながり

まず一つは昔から気になっていたから。

子供の頃に学校で芋ほりをやったり、コメの苗植え体験があったりしたときの感覚が残っているのか何となくやってみたい感じがずっとうっすらあった。

また、農業とか畑とは別に自然に触れる時間を確保したいというのもあり、それはもろもろのバランスを取って行く上で、町とか都市との対比としての自然。

これも子供の頃に雪山登山とか川遊びした時の面白いという記憶から来ている気もするが、人生をちゃんと遊んでいくということを考えていくとき、そこに「自然」は当然含まれていて、

宮古島の海とかペルーのアマゾン川とかジャングルもそういうところに関係していて、これはもう少し言えば、自分の感覚を鋭くというか、ある程度いい感度の状態でキープしたいというのがあり、

それは自然に身を置く中で頭で考えるだけではどうにもならない部分があり、身体で直接感じ取ったり、直観のようなもので動く必要が出てくることもあり、

自分の気持ちやどっちに進もうとしているか、何が不足しているように感じているか、そういったものを見過ごさないセンサーを起動させ続けるために、「自然に触れている」というのは効果的で、これも桜井章一がそんな話をしていた気がする。

やりたいことが分からない読書録7『流れをつかむ技術』桜井章一

シンプルに気持ちがいいというのもあって、これは1/fゆらぎの観点から説明がつくような気がしているが、科学的にはまだはっきり証明できてはいないようである。

自然は規則性と不規則性のバランスが絶妙で、人間にとっての心地よさの根源に近い感覚がある。

自然の中にあるエネルギー循環

そして僕は自分が動き獲得していくエネルギーをどんどん横流ししていき、その循環を大きくしていくことがより面白い今日を過ごすということなのだと思っていて(開拓整備)、

このエネルギー循環を考えたとき、自然というのは明らかにそのサイクルで動いていて、人間の意図や感情でせき止められたり捻じ曲げられたりするものではない。

部分的にはあるかもしれないが、全体としては、ただひたすら勝手に循環していく、それは海水が蒸発して雲になり山にぶつかって雨が降り川を流れてまた海に戻ってくるという水の循環をはじめとして、

それこそ作物も太陽の光エネルギーや微生物や植物やそこに来る昆虫がエネルギーを循環させていく中で出来上がり、それを人が食べそのエネルギーで仕事して生活して都市ができ発展してきたわけで、

その意味でも農業は自然の中にあるエネルギー循環に触れることになるもので、そこから人間同士の方に広げていく、広がっていく、だからそんなサイクルに直接触れておくことに面白さがある。

農業から経済へ

お金というエネルギーの循環が経済ということになるが、畑での比較的原初のエネルギー循環から人間の方にいくなかで、お金というものが入ってきて、

だから自分たちの経済を考えていく上でも農業は重要な研究対象と言うとなんか野暮ですがw、農業とは何かと考えていくことは生活にもつながってきて、だから実際に体験しておくことは自然な流れ。

また、自分で食べるものを自分で作っていく経験から、誰に何を頼ってどういうコミュニティやエネルギーの流れの中で過ごしていくのか考えていくきっかけになる。

誰に何を頼る、というのは、スーパーで野菜を買えば、お金が必要でそのお金は会社で働くことで得ているのだとすれば、それは会社に頼って生きていると言えるわけで、そのうち半分を自分で生産できたとすれば、会社に頼る割合は半分になり、

また、会社以外からも収入を得ているのであれば、それはまた頼る割合が半分になり、その野菜を作るのに誰かの手を借りれば、彼らにも頼るということであり、

つまり、自分が活きる一部を自分で賄うことで、普段何にどの程度頼っているのか、依存しているのか考えるきっかけとなる。

ここでの依存はそれ自体に悪い意味はなく、どっちかと言えばそれが少数に偏ることで生活に占める割合が大きくなることを避けたいというニュアンス。

「慣れからの離脱」を促す芸術として

で、これらはシクロフスキーが芸術はdefamiliarizaition、つまり馴染みある状態からの離脱というように、普段の習慣の上にあって素通りしているものに、ゆっくり長く向き合うことを促す。

農業という芸術によって、普段の生活を振り返りそこに違和感を知覚し、あるべき方向、目指したい方向への微調整がよりスムーズになるかもしれない。

こうなると宮沢賢治が『農民芸術概論要綱』の中で「農民芸術とは、宇宙の地、人、個性、と通ずる具体的な表現だ」といったのとも関係してきて、

この畑での体験から生まれる内側の流れを表現していくことで、歌や詩や演劇や舞踊や工芸品となり、それ自体が一つの芸術として形を伴い、物理空間に広がっていく、

これがまたエネルギーを循環させることとなり、それは経済の始まりであり、この世界が嬉しく面白くなっていくことなのである。

畑の手伝いレポート&日記(~7/8)