完成してから発表することの是非を考えたいと思います。
さっき僕は本を読んでいました。少し気になったところがあったので、メモしようとしました。
でも、まだはっきりと「それに何を感じて記録しようとしたのか」分かっていなかったんですね。
つまり、何となくメモしておこうと思ったわけです。
この時もう一つのアプローチとしては、「それがはっきりわかってからメモする」というのがあります。
そのテーマについてある程度考えがまとまってきたタイミングで、「頭の中から別の媒体に移しておく」というイメージでしょうか。
ただ、これって「もうすでに完成したものを別の場所に取り出す」行為です。
つまり、一度その考えは切り上げられたもので、静的です。
その動いていないもの、頭の中ではもう完成して一つの塊となっているものを、「ただ思い起こし、順に書き出し、移動させる」わけです。
これは面白くないんですね。ただの作業だからです。
ということを最近感じているのですが、今回はこれをもう少し考えていきたいのです。
つまり、じゃあどうすればいいのか、ということです。
考えがまとまる前に書き始める
「自分の考えがまとまり切らないうちに書き始める」のがいいんじゃないかと思っています。
自分だけのための雑なメモ、つまりキーワードやフレーズをただ並べてみたり、支離滅裂に書きなぐったりするようなものではなく、最低限読み物として成立しているようなもの。
この形で書いていくということです。
今までいろいろ本を読むたびに、または何かの概念を調べてみるたびに、「これについて整理出来たら、ブログ記事なり、レポートなりにまとめていこう」と思ってきました。
最初は文献を読んでみてもよくわからないので、とりあえず自分用のちょっとしたメモだけ書いておいて、または全くそれをすることもなく、とにかく先に進んでみようとします。
また後から整理出来たら書いていこうと。
でも、「わかる」というのは、毎回どこかのタイミングで急に来るわけでもありません。
グラデーション的に少しずつクリアになっていくような感じで進んでいきます。
すると、「どのタイミングでそれらを整理するのか」ということになります。
自分の中で分かったと思ったとき、それはもう完成しているので、完成品の出来上がったものをただ紙やネット上に書き起こすわけです。
それは面白くないので、あまり乗り気にはなりません。
複雑で分量が多くなりそうなものほど、いちいちもう自分の中で分かっていることを書き起こそうとは思わないのです。
むしろ分かろうとするために紙に書き出してみたりする方が自然です。
じゃあ分かってから、理解してから、整理出来てから、人に公開するものとして書くのは、どれくらい価値のあることなのか、です。
ゴールした後にしか語る資格はないのか
分からない中であれこれ考えを巡らせて、理解というある種のゴールにたどり着こうとするその時間は、ずっと頭の中でぐるぐる動いているものがあります。
それを書き出しておくのがいいんじゃないかと思うんですね。
全部わかって整理整頓できてから書くのではなく、というか、じゃあ全部わかるってどういうことなのか、という話でもあります。
「全部わかってから」と思うと、「全部は分かってないが、大体わかってきた」というところで飽きて、別の問題に興味が移行して結局何も出力されていない、となりかねません。
だから、その「たどり着こうとする過程での、頭の中の流れ」を排出しておくわけです。
ここにある理念ともいえるのは、
「何かを理解したり体得しようとしたとき、それが終わった後、つまりゴールした後にしか価値がないのか」
ということです。
つまり、本当にその「理解というゴール」に到達することだけに注意を向けていていいのか、ということです。
「そこにたどり着く過程で考えたこと感じたこと試行錯誤したこと」は、ゴール地点から言葉で表現されるとき、大体の場合削られます。
「スタートした時間があり、そこからゴールまでの道のりがあり、そしてゴールをした」という流れからの逆算でしか表現されません。
「ゴールした、理解した、何か分かったその自分から見たときに」必要の感じる範囲でしか表現されないのです。
例えば、最近興味あるので言うと、「模倣」についてなのですが、ここでは細かい話は省きますが、
じゃあ模倣について、僕が知りたい文脈で理解出来たとき、知りたいところまでわかったと思えたとき、僕はこの模倣というテーマで、何らかの文章を書くはずです。
でもそれは、模倣に関して調べ考え満足した僕から見たときに、読む人も同じ感覚になれることを考えて記述をしていくわけです。
つまり、「こんな風に説明していけば、同じように分かってもらえるだろう」という気持ちで恐らく書いていきます。
それは確かに、「模倣についての理解」というゴールまで読者を運ぶことが目的であれば、適切なアプローチかもしれません。
ただ、それでいいのか、というわけです。
それが目的でいいのか、ということです。
それが面白いのかということです。
模写しててもつまらない
「これを読めば僕と同じように出来るようになります」というスタンスで書いていては、
そこに至るまでに考えたことや、取り組んだことは出てきません。
いや、「僕は最初こんな風に考えていました」という形で入れ込まれることはあるかもしれませんん。
でもそれは、「その目的のために必要と判断した」からそこに書かれているものです。
ゴールからの逆算で、「この情報があったほうがいい」という判断に基づいて表現されているものです。
まさにその瞬間の情景や温度が伝わることがないのです。
いくら思い出して書いたところで、記憶の中から、そこに見えているものを書いてくるだけだからです。
模写に過ぎないからです。
結局、「その最中」が伝わることはありません。
だから、冒頭の話に戻りますが、
「整理してからまとまってから書いていこう」と思ったそのときの「分かっていない具合、理解できてない具合、その流れ、頭に渦巻いている景色」は、その瞬間にしか表現されないわけです。
そして、そこを共有するところに面白さがあると思ってるんですね。
その感じを遊ぶ、または遊んでもらう、そこに何かを学んで表現しようとすることの魅力があります。
つまり、僕は模倣について気になり調べようとしたとき、それが分かったら文章にまとめようと考えるわけですが、
その時に書かれるべきは、理解が完了してからの、その理解にたどり着くための最適なルートではなく、
そのゴールまでをどんなことを考えてどんな道を通ってきたのかという、その冒険のいわば日記とも呼べるような、そんな物語じゃないかと思うわけです。
そう考えると、今回の例なら、模倣について理解してからの話はほとんどおまけに過ぎないということになってきます。
道中の出来事を、「上手くゴールにたどり着くための道具」としてのみ扱いはしない、ということです。
日常を理想のための手段と捉えない、という似た話もなんか最近してた気がします。
やっぱり人生の軸も日常も子供の時の感動をベースに考えていくのがよさそうという話
完成やゴールとは何か、意識を向けるべきものは何か、という話なんですね。