情報発信を始める

なぜ毎日書いて新しいコンセプトが生まれると嬉しいのか

毎日何か書いていいことは、新しいコンセプトが生まれてくることである。

最近はどうなのか分かりませんが、よく毎日更新したほうがいいと言われたりします。

それはどっちかと言えばアクセスとか読者とのコミュニケーション的な観点で、そういえばnoteとかでも毎日更新が流行ってたりしますね。

で、確かにできるのならその方がいいのかもしれませんが、そっちの意味ではなく嬉しいこともあって、それは毎日書いてると日々新しいコンセプトが生まれてくるってことです。

これは毎日書いて毎日誰かに発表する必要はなくて、とにかく毎日書くということです。

とはいえ全く人に見せるつもりがないのも恐らく効果はなくて、外に開かれた状態で書く中でしか出てこない内側というのもあります。

新しいコンセプトというのは、その数日から数週間ぼんやり考えていたようなことが、一つのまとまったアイデアとかフレーズとして出てくるってことなんですね。

最近の記事で言えば、哲学史シリーズとか、価値=電荷仮説とか、エネルギーの湿地とか、そういうのです。

エネルギーの源泉から湿地へ

新しい発見があると楽しい

じゃあそれの何がいいのかと言うと、シンプルに新しい発見なので嬉しいってことですw、

自分の中で好きな感覚とか、何となく大事にしてる感じとか、そういったものが、一つのコンセプトとして急に出てきたりします。

それは普通に生活してて思い付くというよりは、なんか適当に書いてるうちに気づいたらそんな話をしていて、これって結局こういう言い方でまとめれるやん!という感じ。

で、そういうのが出てくるとしばらくは次は逆にそのコンセプトについての話をしていこうとなります。

つまり、毎日適当に書いてる断片からボトムアップ的に一つのコンセプトが生まれてきて、というかそれに気づき、今度は逆にそのコンセプトからトップダウンでまた新たな文章が生まれていきます。

それは新たな道の発見で、新たな探検の始まりなのです。

一つのコンセプトについてはしばらく書いてると、今書けるのはこんなもんかなということで、落ち着くわけですが、

つまり、未知の領域の開拓が終わり、草刈りが終了して、そこで寝転んでしばらくリラックスするんですが、

ふと顔を右に傾けてみると、壁と思ってたところに小さい穴があって、そっちも行けたんや、ということでかがんで先に進んでみると、そこはまた草木が生い茂っているわけです。

なので、また草刈チャンスです。

草をかき分け進んでいくと背の高い木があり、見上げると真っ赤な果実が見つかりました。

ってな具合にどんどん新しい場所を開拓して進んでいくんですね。

すると、いろんなコンセプトが手元にあることになります。

コンセプトの一つ一つは遊び場である

その一つ一つがみんなの楽しい遊び場になるわけです。

ちょうどそんな話が聞きたかったというコンセプトに育って行きます。

すると今までなら出会わなかった人に遭遇するかもしれません。

彼らもパーティーに加わり、より大きな循環となっていくのです。

こういうのはゼロから頭の中だけで考えていてもなかなか難しいものです。

適当に書いてるからこそ、ついでに最近考えてたあの話もしてみようということで、気づけば一つのコンセプトがそこに現れていたりするものです。

そういえば、飽きるタイミングっていつなのか、ということが気になっています。

一説には自分が全体像やコツをつかんできたとき、という話を聞いたことがあります。

サルトルの実存主義に途中で飽きた。

最近サルトルの実存主義が気になって90分で分かるサルトルという超簡単そうな本を読んでました。

哲学史ノート

サルトルはキルケゴールやらフッサールやらハイデガーの思想を研究しつつ自分の哲学を作っていったらしいんですが、その辺の話はめっちゃおもろかったんですね。

哲学を見ていく時はそのひとりだけを見ても仕方がなくて誰が誰の影響を受けてどう考えたのかって見ていくほうが分かりやすいんですね多分。

で、そのあたりの時はいろんな哲学者が絡んできて、彼らの思想も同時に、というかほかの関連する人との対比で見ていけるので面白かったんですが、後半で、政治に参戦していくんですね。

アンガージュマンマンとか言われるやつで、そこも元々は気になってたんですが、その晩年の話になった瞬間に一気に興味がなくなって、めっちゃ飽きたのですw

で、それは多分サルトルの事なんとなくわかった気がしたからなんですね。

実際はそんなうっすい本一つ読んだぐらいで分かるわけないんですが、僕はサルトルの思想の全てを知りたいのではなく、哲学の歴史としてサルトルや実存主義と呼ばれるものの立ち位置を知りたかったのです。

そしてそれが分かると一気に興味を失ってしまいました。飽きるというのは今の時点でそれについて楽しめる分は楽しんだってことですよね。

さっきの話に戻せば、新しいコンセプトが出てきて嬉しいのはまたそのコンセプトについて考えれるとか描けることがあるからで、それらに退屈するのは一旦それについて書けることは書いた気がしたからですよね。

よく話に出てくるように、分かってる話を整理して書くのはつまらないのです。

二週間で興味は移ろうので表現も同時に行わないと追いつかない

書き手にとって新鮮な発見だからこそその勢いで書くわけです。

書くというのは考えるのと重なっていて、考えの生まれない書く、それは労働としての書くなのです。

書くことを目的とした書くではなくそれは手段になっています。

もちろん手段でもあるんですが、そこの重なりを追求していくことが面白いわけです。

それが自己実現と他者貢献の一致であってそれを感じられるのは毎日書いてこそなのです。

雑草の生い茂る場所を遊び場へと変えていく

そうですね、新しいコンセプトを見つけるというのは、雑草の生い茂る場所を誰かにとっての遊び場に変えることなのです。

そこはまだ、誰も手を出していない領域で、漠然と人の脳内で、いろんな概念同士で絡まりあい、そのままでは受け取るのが、観察するのが難しい場所です。

そこからある部分で区切って、その範囲をきれいに整理していきます。

綺麗と言ってもコンクリートで固めて道路を作って信号を作ればいいということでもありません。

そういう時があってもいいですが、全部がそれではそれはそれでつまらないものです。

中には、とげとげだったり背の高い草を刈り取って、野原に変換するだけで十分なこともあるかもしれません。

それだけで気持ちのいい遊び場になることもあります。

つまり、こんがらがってぐちゃぐちゃで散らかっていて、まだ人が楽しめないものをそれを人が認識し受け取りそこから何か感じ取れるぐらいのところまで解きほぐしていくのが新しいコンセプトを見つけるということです。

人の脳内のまだ認識されていない部分や、危険で立ち入り禁止になっていたり、散らかりすぎてヘドロになっていて、近寄ろうとしない部分を見つけ出し積極的に入っていき、水草を浮かべ、鳥やトンボやアメンボを引き寄せ、底まで見える透き通った池にしたり、ピクニックのできる草原へと変換することが毎日書くということで、新しいコンセプトが生まれるということなのです。