なぜ自分の考えやオリジナルな文章が大きな意味を持つのか
自分のエネルギーの源泉とか心地よさの原風景を無視することなく生きていこうと思うと、その部分で環境とコミュニケーションしていくことになります。
情報発信もその一つです。
そうなると他人の考えや言葉、ただの事実ではなく、自分の言葉を扱えることが望ましいです。
その中に本人の奥の方にある価値観とか信念が見出され、それがまた受け手の奥底にある物を震わせたときに、
そこで生まれる関係性が当人にとって自然で気持ちのいいものだからです。
▶方向性が表明され体現されているとそれに共鳴する人が興味を持つようになるという話
その自分の言葉は「私見」とも言うことができます。
でもこの私見を思いつくこと、言うことは、不慣れな段階ではそれほど簡単ではないように感じます。
ブログの記事を書くにしても、間違ったことは言ってはいけないとか、全くのオリジナルでないといけないとか思ってしまいがちです。
▶正しいことを言おうとしてブログを書けない人にソフィストと芸人の共通項を語りたいという話
でも実はそんな難しいことではないのです。
私見とは、「that reminds me of a story(そういえば、こんな話を思い出した)」なのです、
と言ってる記事がすごく実践的で使い勝手がいいと思ったので、共有しておこうという趣旨です。
私見とは「that reminds me of a story」である
どういう文脈だったか忘れたが、chatGPTが紹介してきた人の中に内田樹という人がいた。
wikiによると「フランス文学者・武道家・翻訳家・思想家・エッセイスト。元学生運動家。」ということらしい。
名前は見たことあるがあまり知らないので適当に調べてみると、彼の研究室のサイトが出てきて、そこにブログっぽくいくつかの記事が書き連ねられているのを見つけた。
その一つに「2024年度寺子屋ゼミのテーマは」という記事があった。
おそらく研究室内のゼミのテーマについてなんですが、さらに「皆さんこんな風に発表してくださいね」というメッセージがあり、それが「私見を述べてください」というもの。
つまり、ただ「客観的事実」を集めて提示するんじゃなくて、「自分で考えたこととか思ったこと」を言いましょうねと。
で、この私見について、「そうはいってもそんなめちゃくちゃオリジナリティーに溢れるものでないといけないわけではない」と続きます。
こっからがめっちゃおもろい話で、一部引用してみる。
「知性の活動とは何かということについて、多くの賢人は同じことを言っています。それは「一見何の関係もなさそうな事象の間の関係性を発見すること」です。ある出来事やある言明に触れたときに、「ふと、あることを思い出して、『これって、あれじゃん』と思うこと」。それが人間知性の働きです。
That reminds me of a story 「そういえば、こんな話を思い出した」
これが人間知性の本質だとグレゴリー・ベイトソンは『精神と自然』の中で言っております(そうは言ってないけど、たぶんそう言いたかったんだと思います)」
まず1つ目は、私見ってそういうことなのかとすごくわかりやすい。
「そういえば~」というのが私見だと言われると確かにイメージを掴みやすい。
ゼロからオリジナルな話を考えるのではなくて、ある出来事に紐づいて思い出される形で出てきたものが、私見だということ。
「そういえば~」の思い出し方は「天然知能」に近い
ただこれもおまけの話でしかなくて、そんなことよりも、まさに今これを見ていて「そういえば、、、、」と思ったことがありまして。
ベイトソンのこの本はまた別の文脈から気になっていたものの手を付けていなかったのですが、ここで続きを読むと
「あるテーマについて調べようと思った。いろいろ資料を調べているうちに、ふと「これって、あれじゃん」と思った。それを発表してくれればいいんです。いったい何がトリガーになってそんなことを思いついたか、本人にさえよくわからないこと、それが「誰も言いそうもないこと」であり、実は余人を以ては代え難いみなさんの「オリジナルな知見」なんです。」
とあって、「え、これって、郡司ペギオ幸夫の天然知能やん」と僕は思ったのです。
この天然知能というのは「1.5人称」的な感覚で、「自分の世界とか認識の範疇の外から急にこっちに来るものを受け入れる」みたいなニュアンス。
▶やりたいことが分からない読書録2『天然知能』郡司ペギオ幸夫
明確に何と書いてたか忘れたが、
「廊下を歩いててまっすぐ行った先に目的があるときに、でもふと横の壁を触ってみたりして、『ここに実は隠し扉があるんじゃないか』とか思う時の頭の使い方が天然知能なんです」
って、見た記憶がある、全く違うかもしれないが。
で、これってまさにこのベイトソンが言うところの「それで今思い出してんけどぉ」で始まる話の見つかり方ではないかと思ったわけです。
そして適当に研究室のホームページにある記事を見て、こんな風に派生して流れていくここまでが、まさにこの人の言う「私見」だったのです。
本題を思いつくに至ったきっかけからすべて書くとオリジナルになる
で、この発見のミニ感動を共有すべくここまで書いてきたわけですが、さらにここまで書いたことでもう一つ浮かんできたことがありまして、
このページで言及されてる「私見」の定義とかニュアンスはそっくりそのまま情報発信の文脈に接続できるはずです。
というのは、もう一度引用してみると
「あるテーマについて調べようと思った。いろいろ資料を調べているうちに、ふと「これって、あれじゃん」と思った。それを発表してくれればいいんです。いったい何がトリガーになってそんなことを思いついたか、本人にさえよくわからないこと、それが「誰も言いそうもないこと」であり、実は余人を以ては代え難いみなさんの「オリジナルな知見」なんです。」
これなんですけど、どこに注目したいかというと
「いったい何がトリガーになってそんなことを思いついたか、本人にさえよくわからないこと」
ここです。
これは研究室のゼミなので、テーマがあらかじめあって、それにまつわる文献を見てる中で「あ、これって、、、」と思ったことを発表しましょうってことですが、
情報発信とかブログにおいては普段の生活の中で何らかの活動をしたり人と話したり映画やら音楽やらに触れる中で思ったことを書くことが、それが一つのコンテンツであるということなのですが、
さらにまだ続きまして、そのときに僕が猛烈に重要だと思うのは、
「何がトリガーになったか分からないなりに、そのトリガーについていちいちちゃんと書く」
ということです。
「こんなことをしてた、こんなことを見てた、じゃあそれの○○の部分で、◆◆という風に感じた、△△なのではないかと思った」、
そのお話が面白いコンテンツなのです。
そしてこれの何がいいのかと言えば、そのお話を誘発した営みの部分に生活が感じられ、それによって書き手の人間性が全く自然な形でその話に響き渡る。
しかもこれがその話に時間の流れも持ち込み、文脈をも作ります。
▶「作家は時間を作り出す」という感覚が面白そうな話【外在化された時間と主体的な時間】
これを本筋に関係ないからと言って前段をカットしていきなり話を始めると、
「え、この人は何で急にこんな話したのか」「めっちゃ当たり前の話してますやん」ということになる。
なぜなら、「その最初の話から今回の本題を思いついた」というそのつながりの部分が、「その人ならではの物の見方、世界認識の方法」であるから。
(歌手の世界認識に触れてみようという話:歌の一曲すら適当に聴くから日常がおもんなくなっていく。)
今回書いてきたことも寸分たがわず同様で、じゃあメインどころとして取り上げられそうなのはどこかと言えば、
「ベイトソンと天然知能が同じだということ」と「なぜその話を始めたかが大事で、それが文脈を作り人間性も感じさせる」ですが、
こんな話はいきなり始めても、前者については急に言われても必要性が感じられない、後者について一般論でしかないわけです。
でも冒頭から全部まとめて書き連ねていくと、全体として一個のコンテンツというよりは、まさに「お話」として受け取ってもらえることになる。
そして人は広義の物語の形式でしか認知しないのだから、関係性の出来上がっていない人に見てもらう上で適切な形に勝手に仕上がる。
というわけで、自分の言葉や考えを書く上で、「そういえば~」が非常に実践的なフレーズだというお話でした。

