最近ギター担当のUK氏がYouTubeでギターの話してるのがよく出てくるので、その流れでちょっと気になってみてみた。
「むかつくことはそのままでは作品にならないが、自分への叱咤激励に変えるとポップソングになる」
序盤から中盤にかけてのボーカルのアフロ氏の話が面白い。
「仕事とかでむかつくことあってうわーって歌詞書くと言葉は出てくるけど作品にはならない」
「これで俺のこと好きになる奴いないだろうな」
「でもそれを自分への叱咤激励に変えるとポップソングになる」
自分の方法を作っていくとか、自分の方向に進んでいこうと思えば、それは勝手に内側から湧き出てくるエネルギーを燃料としていくほかない。
常に外から供給し続けるのは不可能で、それは無理やり自分を動かしていくような状態、明らかにどこかで限界が来る。
▶価値提供するだけの情報発信が破綻する世界で歩みを止めず進み続ける方法
だからキーワードは「エネルギーの源泉」とか「余剰」で、自分の中でいらんぐらいにあまってるからまわりと分け合ったり、尽きることのない原動力として機能する。
そういう意味で、ここでの発言の様にそんだけ言葉が勝手に出てくるポイントやとめどなく出てくるそのスムーズな感じを軸にするしかなくて、
それは頭で考えてひねり出すとかじゃなくてその瞬間に大量にあふれてくるような出てき方で、
でもそれがそのまま作品やコンテンツになるわけではない、というのもこれまた大事なところで、そこのチューニングがむずいんですが、
この人で言えば、それを「自分自身への叱咤激励に変える」という方法。
エネルギーがあふれ出てくるという意味で、生活上のフラストレーションや愚痴に焦点を当てるのはアフロ氏にとってはうまくやる方法だが、
それをどう変換して外に出すかが問題で、そこを自分自身への叱咤激励に変換するというやり方があるということ。
でもこれもいろいろ試行錯誤しながら歌詞を書いてる中で「この角度やポイントならいいのかも」という感じで見つかるもので、
つまり、「外にベクトルを向けるのではなくて自分に向けて『自分もこういうところがあって許せない』とかの方向ならちょうどいい」ってわかってくるもので、
それはやっぱり身体性というか身体感覚として運動を通して馴染んでくるものだから、
「”概念や情報やノウハウとして”怒りや許せないというマイナスの感情を外ではなくうちに向ければいい」ということではなく、
何回もいろんなやり方を繰り返してるうちにこのパターンなら書ける、というポイントを見つけその方向に前進していくもの。
一回でそこを掘り当てられはしないし、そのスポットも人によって違ってくるから自分で体を使った運動を繰り返して見つけ出していく。
こういうのもその一つ。
「出尽くしてないからまだギターでやれてる」
そしてもう一つ、最後の方の「ギターでやれることが出尽くしたら他の楽器でもいい」って話がばりおもろい。
もちろんギターが面白くて好きでやってるのだとは思いますが、ギターだけに絶対的なこだわりがあるというよりも、
「それが持つポテンシャルの全てを引き出したい」という精神的な部分が先にあって、結果として今、ギターの可能性を探求しているという構図。
批評の神様と言われるらしい小林秀雄が、「自分がやっていたのが結果的に批評と呼ばれるものだっただけ」と言ってたのに近い。
JTA通信05 小林秀雄特集風
ここの因果関係を逆で考えがち。
ちょっと前に文学や芸術に興味があって、それは言葉とか文章を書く事の可能性を広げたいというか感じたいというか、「そこもっと何かあるやろ」って感覚から来ていて、
それで過去に言葉や創作について考えてきた人のことを掘り下げていこうとしたのですが、
やっぱりすでにあるジャンルや名前より衝動の方が先に来るのが自然なのではないかと思う。
「シンガーソングライターは怠けている」
「シンガーソングライターはギターを言葉を伝える手段として見ていて、ギター自体を探求することを怠けている」
というニュアンスの話もあったがそれも面白くて、
何かにめっちゃエネルギーを費やしている人にとっては、それだけのエネルギーを費やすに値するものだと感じているからで、
そんだけ引っかかることのできる感性やセンサーがあるということで、
それは他の人よりそれから刺激を受けやすいということで、
それは一つの条件で才能で、そこに面白さを見出せるかというのが、それを続けていく最初のステップとしてある。
これはでも初めからあるというより、
毎日やっていくことで知識が増えたりスキルが向上したりしてさらに繊細な違いや成長を感じれるようになり、さらに刺激を受けやすくなる、そういうものなのだと思う。
今いる系に直交する新たな軸の方向に飛び出していく
「出尽くしてないからまだギターでやれてる」ってのがハイライトで、ギターをやりたいというより、「出尽くすまで何かをやりたい」というもっと深いところにある感覚が先に来てる。
元々メイクしてエレキで早引きやってたらしく、それがあってアコギ嫌いだったがでも嫌いなことをやり尽くしてから結果どうだったかを見てみよう、ということで今やってると。
でもここで注意が必要なのは、嫌いなことも一回やり尽くしてから考えようというのはこの人の方法であって、その形式だけをそのまま受け取る必要はなく、自分の方法とか考え方をもとに置いて動いていい。
最後に糸井重里氏が
「それって全身麻酔とも似ていて、ピックも何もかも捨ててアコギをやるっていうのは、そこには自分が認識しなかった自分しかいない」
と言っていて、これも多分スーパー大事な感覚。
自分が認識しなかった自分に出会っていく、その自分を生み出していく起こしていく立ち上げていく誕生させていく、そういうことの繰り返しがおもろい。
というか、それがないのはずっと同じ平面にいる奴。
三次元、四次元、五次元の新たな軸の方向に飛び出し続けていく。