こんにちは。高本です。
今回は「コンテンツの価値は妥当性や正確性ではなく、受け手に変化が生じることにある」というテーマで、情報発信する側のスタンスについて考えていきます。
というか、僕の中である程度まとまってきた感じがするので、共有してみようというやつです。
自分の主張の正しさに自信が持てない
情報発信をしていく上で、メンタルブロックになりがちなものの1つとして、「自分のコンテンツや主張の正しさに自信が持てない」というのがあります。
もっと直接的に言えば、誰かに「いや、それ間違ってるんじゃないの」って突っ込まれそうな気がすると。
実際にはそんなことはめったに起こりませんが、少なくともこっちの内側ではそんな声が響いる。
そして、それによってアウトプットにブレーキがかかる。僕も非常によくありました。
で、それは慣れである程度解消されるものではありますが、最近しっくり来たスタンスというか立ち位置がありまして。
それは、
「コンテンツの価値は、根拠の妥当性や正確性ではなく、受け手に変化が生まれることにある」
ということです。
前者を求められるのが、真理の探究が目的である学術研究や科学ですね。
研究者の目的は真理を追究すること
これは以前、学問のザインとゾレンの違いについての記事でも少し触れましたが、そもそも僕たちは学者ではありません。
何かを深く突き詰めていくパイオニア的スピリッツは大事ですが、アカデミックの世界に生きているわけではありません。
だから何かメッセージを発するとき、その主張の意味(何のためにその主張をするのか)とその主張の使われ方、これらは研究者と僕たちでは方向性が違います。
研究者にとっての目的は真理を追究することです。
観測できる事実やデータを積み上げて、誰にとっても認められる真理を追求していきます。
その場合、主張の正しさ、つまりそれを支える根拠の妥当性は重要になります。
個人や研究所などのコミュニティレベルでは正しいと思っていても、それを論文として発表するには審査があり、また世界中の研究者から批判的に検討されます。
で、そうやって徹底的に検討されて、それでもなお生き残ったものが正しさを認められて、また一つ真理に近づいたということになるわけです。
情報発信における価値とは体験のことである
もちろん正しいものや真理を追求すると言う態度は必要であるし、そこにも面白さが存分に詰まってるんですが、
でも僕たちが発信するメッセージやコンテンツにおいて重要視されるのは、そこではありません。
正しさではなく価値を届ける必要があります。情報発信の根幹は価値提供です。
というのは、あえて大げさに言えば、読者は時間という自らの命との交換で僕たちの発信を受け取ります。
だからそのコンテンツに費やす時間以上に得られる何かが必要です。そうでなければ見ません。その何かを価値と捉えているわけですね。
テクニックを駆使して無理やり見せても仕方がない
もちろん、習慣や惰性で見るということはあります。youtube や tiktok のように、ドーパミンなどの脳内物質によって意思とは別に見させられる場合もあるでしょう。
でも僕たちがやりたい情報発信においては、無理やり見せても仕方がないわけですね。
価値観や目指している方向などをひっくるめた、そのメディアや媒体で表現されている世界観に共感する人に見てもらえればいいのです。
方向がそろっていたり、文脈が共有出来ている場として機能していることに意味があります。
その場限りの出会いがいくら増えても疲れるだけですからね。
いずれは自分が提供する価値について考えることになる
話を戻しまして、つまり大前提としては、ひとまずそのコンテンツに費やす時間以上のものが提供されている必要があります。
これに関しても、段階はあります。最初から「価値が~」とかそんなことを気にしてたら、それこそ発信できない可能性が高くなります。
でも、発信する側と受け取る側の間にあるものがコンテンツです。そういう形で関係づいてる以上、こちらの都合だけで続けていくことはできません。
続けられないというのは、自分は書いてるだけで満足できたりするかもしれませんが、それでは周りも含めた循環は起きていないわけですね。
で、それはこのブログで取り上げている情報発信のあり方には含みません。
だから最初はどうであれ、最終的には、それを受け取るために費やされる以上の価値が提供できなければ、成立しないということです。
じゃあその価値とは何か。
読者にとっての価値は、知識ではなく「行動→フィードバック」の時間の流れ
価値は、読者に何らかの変化が生じるところにあります。もう少し具体的に言えば、体験です。
「コンテンツに触れる→行動する→フィードバックがある」という、時間の流れを伴った体験に価値があります。
通常、情報発信の場では、目指す方向やゴールが掲げられています。そっちに近づいていく道具として、コンテンツが存在します。
つまりコンテンツの役割は、その方向に何歩か進む助けになることです。
少しでも進めば景色は変わるし、その道中に学びや感情の変化が生まれます。それをひっくるめて体験というわけですね。
この辺の感覚は、↓の記事でももう少し詳しく取り上げてます。
で、例えば今回の内容で言えば、
「ふーん、学者と情報発信者では、主張の捉え方が違うんや~」
で終わると、知識や情報を伝えただけです。
でも、
「なるほど、学者と情報発信者では、主張の捉え方が違うのか。じゃあ一回それを意識して書いてみよう」
って実際にやってみてもらえれば、抵抗なく発信できるかもしれません。その結果、何か思うこと感じる事、さらに取り組んでみたいことが出てくるかもしれません。
そんなフィードバックまで含めれば、時間の流れのある一つの体験になります。
つまりコンテンツを通して、何らかの行動が生まれ、それによるフィードバックとして感情も含めた何らかのエネルギーを獲得する。
そんな体験につながるきっかけとして機能した時に、価値を届けることができたと捉えられるわけです。
新たな視点を共有して、これからの世界の見え方が変わるという体験もある
厳密に言えば、何か特定の行動である必要もないんですね。
ここで何か新たな視点とか見方とか感覚を共有して、それをもって世界と触れ合えば、情報の入ってきかたが変わってくることがあるはずです。
それも体験ですよね。
で、こうやって何か主張をするとか文章を書いていく時の意識として、今回は細かいところまでは話できないんですが、おすすめのやつが3つありまして。
・パラダイムシフト
・フィルター・視点の共有
・気持ちの変化
読んだ人にこの辺りの変化が生まれるイメージを持っておけば、行動や体験につながるコンテンツとして成立するかなという体感です。ぜひ使ってみてください。
これに関しては、以前書いた記事で近いニュアンスの話はしてるので、こちらを見てもらうといいかと思います。
まとめ
というわけで、今回は「コンテンツの価値は妥当性や正確性ではなく、受け手に変化が生じることにある」というテーマでお送りしました。
情報発信では、主張に対する根拠の妥当性や正確性よりも、
「その主張に納得して、動いて、フィードバックが生まれる」という、一つの体験につながることのほうが大事ということでした。
むしろどっちかと言えば、その体験が生まれる主張であるために、どの程度の根拠の強さが必要であるべきか、という考え方ですね。
例えば、企業やビジネスの場であれば、「行動してお金を稼げる」という結果が大事であるはずです。
だからその場合も、科学的な根拠やその正確性よりもお金が生まれる行動につながったか、という視点です。
こういう実感があれば、必要以上に正確性を気にして、発信できないということも減ってくると思います。
ぜひ、「パラダイムシフト、フィルターの共有、気持ちの変化」も意識してみてください。
それではここまでお読みいただきありがとうございました。
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