コラム(?)

やりたいことの前に「やりたい感じ」に気づけるかどうか

こんにちは、高本です。年末ですね。

今年の途中ごろから三日ごとにブログを更新するという謎のルールを作ってしまったので、今回が年内最後となります。

いつも見ていただいてありがとうございます。明けましてもよろしくお願いします。

そんな話もしながらですが、今日はこの前メルマガコミュニティで配信した、やりたいことについての話を共有します。

人生と日常を一致させて盛大に生きる人が集う楽しいメルマガの話こんにちは、高本です。 今日はメルマガ始めましたというお知らせです。 以前からLINEの形でレポートやニュースレターを配信し...

「やりたい気持ち」を察知できることだけが大事

僕はこの問題をなんやかんやで5年ぐらい考えてきました。

最初は大学1年生で物理の実験やってた時に、「これの何がおもろいねん」となって、「今のうちに何かアクションしていかないと40年後くそつまらんことが確定してるではないか」と気づきました。

ただその時はやりたいことをやるという感覚そのものが鈍りに鈍っていたので、最初の一歩の踏み出し先すらわからないという塩梅でした。

少し話は変わるのですが、この前友達と話していて思い出したことがありました。彼は毎日しっかり仕事をして、休みの日は各地に出かけたりして非常によく遊ぶタイプで、インターネットの界隈とはほぼ無縁です。

で、どういう流れか忘れたがFIREの話になり、彼が「でもそんな切り詰めて生活してて、急にお金使えることになっても何していいかわからんくない?」と言いました。

今考えてみるとFIREってそんな急に贅沢し始めるライフスタイルでもないから、若干ピントが外れてる気がしないでもないんですが、でもこれがまさに今回の話題の重要ポイントで、やりたいことをやるって”普段からちゃんと意識してないと”なかなか簡単ではない。

「やりたいこと」という言い方ももはやどうなのかとは思うがそれは置いておいて、やりたいことをやるためには、「やりたいという気持ちにちゃんと気づける状態」である必要があります。僕はこの感覚を取り戻すのに割と時間がかかりました。

この話の流れで塾でバイトしてた時のある日の出来事を思い出しました。

授業が終わって駐輪場までの帰り道、同期の講師がこれも話の流れは忘れたが、「僕この後友達と遊ぶんですよ~」と言ったタイミングがあり、僕はこの時「え、遊ぶって何するんですか」って聞いた記憶があるのです。

「遊ぶは遊ぶやろ」で終わりなんですが、当時のめっちゃ真面目に大学の課題に取り組んでいた身としては「小学生じゃあるまいし遊ぶって何するねんw」と割りとガチで思っていたのです。

ということは、「ちょっと○○行ってみよう」とか「CMで気になった映画見に行ってみよう」とかを全然していない。

それが偉いとかではありませんが、問題は、自分の内側でうっすらと出てくる「こんなんやりたいなあ、こういうの面白そうやなあ」みたいな声が一切行動と結びついていないことです。

普段からそういったことをしてないのに、今日急に「やりたいこと」「人生で取り組んでいきたいこと」に気づけるわけもありません。虫で言うところの触覚が機能してないのです。

「感覚を磨く」とは「○○したい感じ」を増やすこと

「急に思いつく系のやりたいこと」と「生きがい系のやりたいこと」

で、やりたいことと言ってもいろんなレベルがあって、大きく分けると、今こんなことやってみたいって形で「急に思いつく系のやりたいこと」と、

それに人生掛けられるとか自分の中心的な活動として取り組んでいきたい「生きがい系のやりたいこと」があります。

僕がずっと求めていたのは後者の方でした。ただこっちは、そのときはよく分かってませんでしたが、「やりたい」とかいう表現ではペラいというかそんな次元でもありません。やってしまってる、やらざるを得ない、やらない状態に耐えられない、とかそんなニュアンス。

これが人生のコアとか中核とか根源とかエネルギーの源泉と言ったりするもので、人生の方向性や軸を見立てたりする中で思い出したり気づいたりしていく。

さらに道中で、より気持ちのいい方向、不快の少ない方向に流れていくうちに、どんどん解像度が上がってきて、「この辺りをこういう感じでこうやってやっていくのが心地いいのか」とより深くつかめてくる。

で、そうなると前者の単発的なやりたいことはどうでもいいのかと思ってしまうのですが、こっちはこっちで大事で、何をやるかとかではなく、「やりたい気持ちに気づける状態であること」に意味がある。

自分の人生の方向に進んでいきながらも、日々の生活の中でより気持ちいい方向に微調整していきますが、それを行うのがまさに触覚であり心のセンサーです。ここが機能していないと結局、おもんないと感じ始めていることに気づかず、思考停止でやり続けてしまう。

気分の使い方

あと軸的なものが分かったとて、今日一日を生きていくことの繰り返しなのだから、そして、ただその方向に一直線に向かっていくのは、一つの目的のために今日を手段と見てる発想で、それは僕たちとしては本意ではないわけですよね。

だからちゃんとランダム性を取り込んで、適度に蛇行しながら、道中の景色を楽しみながら、でももっと深いところでは確実に向かいたい方向に近づいて行ってるという心地よさも両方ちゃんと感じていたいわけで。

で、このランダム部分を引き起こしていくのが、「気分」です。

全部気分なのはただの行き当たりばったりですが、自分の感覚や感情や衝動を丁寧にくみ取っていこうとするからこそ、本来の方向とはちょっと外れたところにある面白さに気づくことができます。

別にその時点で面白くなかろうが、でも、ちょっとこっちなんかあるかもって思ってそれをアクションまで持って行くからその先でいつもと違ったイベントが起きて、

そこでの体験や感じたことがまた人生の方向性やエネルギーの源泉の更新と解像度アップに還元されていくわけです。

だから結局、「やりたいことをやる」と聞いて真っ先にイメージするものは実はそれほど重要でもないが、

「やりたい感じ、面白そうな感じ、なんか起こりそうでちょっと気分が上がる感じ」

こういった気持ちをしっかりくみ取れる自分であることはすごく大事なポイントで、だから冒頭の「遊ぶってなんすかw」は結構危険なのです。

じゃあどうすればいいのかというと、一番簡単なのは自分が何かに好奇心が向いた瞬間に注意していくことです。

もっと手前なのは、昔記事にも書いたように「過去にやりたかったことを全部やる」という、今の気持ちに左右されない強制力のあるやり方で、それによって「やりたいことをやってるときの感覚」を思い出させていくイメージです。

そうすると普段どんだけその感覚を味わってないかが分かりますw

ちょっと最初の話とかなりずれてきましたが、まとめると、

恐らく僕たちが本当に求めてるであろう、一生をかけて取り組みたいようなことは「やりたいことをやろう」などでは表現できないもので、でもそういったものを大まかに見定めたり、さらにより解像度を上げていくにあたっては、

自分の方向に進んでいく中で、コンパス的に「やりたいことをやったときの気持ちいい感じ」を知っていて毎日その都度微修正できることに大きな意味がある、

という言い方になるのだろうと思います。

ちなみにここの感覚については、郡司ペギオ幸夫さんの『天然知能』がおすすめです。

というわけで、ここまでお読みいただきありがとうございました。

よいお年を!